被抑圧者の教育学 1回目

フレイレ 被抑圧者の教育学 第1回

 新訳版を読みながら、その文から触発されたことを書き出し、その経験を語る。
 そのレジュメ。1回目。


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自らのなかに抑圧者を宿していることに慣れている被抑圧者が、その2重性と生来のものでないものを体現しているという苦しみの中で、いかにして解放のための教育学に寄与できるのか、ということは大きな問題ではある。しかし、抑圧者は「自らのうちにある」ということを発見したときに、被抑圧者は、解放の教育学の誕生に貢献することができる。なんとか抑圧者のようになろう、そうなりたい、そうなるんだ、という2重性のうちに生きている間は、自らを解放することはできない。被抑圧者の教育学は、抑圧している側から作り上げられていくものではない。被抑圧者の側が、自らも抑圧者も、ともに、非人間的な情況にあることを批判的に発見していくことから作り出される。(pp77-78)
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 構造的に抑圧されたものは、その構造における支配因子の思考に同調している部分があるため、抑圧されている、とは感じづらい部分がある。
 親子の支配関係を見てみる。
 親は子どもを支配している。その形式がどのようなものであれ、支配している。
 心理的に、経済的に、政治的に。
 
 支配の形態を変えることで、被抑圧感は確かに変わる。しかし、形態の変化は、一定の前進ではあるが、根本的な解決にはならない、ともいえる。実質支配が全くない状態を実現するためには、なにが必要か?解放された状態とは?

 →絶対的な自由がないように、絶対的な解放もない。今ある抑圧から解放されて、新たな抑圧関係を意識する中で、次の解放戦略を展望するよりない。

 子どもがやがて親になることで、その抑圧の構造を再生産する。被抑圧者が、新たな抑圧者を作り出している、その姿が、そこにある。
 被抑圧者のなかに、抑圧者に埋め込まれた価値観が、無意識な状態のまま存在しているから、この構造が変わらないのだ。

 抑圧された状態を逃れるために、新たな支配関係を作り出す例は、至る所にある。

<2>
→障害者を例に取る。
 障害者が健常者のように振る舞うことで、「解放」されたかのように錯覚する現実。
 いかに狭い価値観で、もの事を見ているかがわかる現象。

 →→障害者として、くくるその表現自体にも問題はある。
   当該それぞれに、「障害」は異なり、それぞれが、それぞれの人生を生きている。「障害者」として、括られなければならないものはない。 

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→私自身が抑圧されていると感じるものは何か?
@職場における管理、規制、規範。
 ネクタイ闘争、フェイスシールド闘争などは、管理・規制との闘争として、存在している。が、そのことによって、自由になれたのか? 強化に反対しているだけで、反対運動を通して、次の新しい勝ち軸を明確には作り出せていない。その萌芽としては、新しいネクタイの存在形態は、見えてきている。
 コピー機使用闘争は、そのコピー機の使用を全面的に場の利用者すべてに広げようという闘い。職員専用化されたものを、一部奪還して、講師使用可能化させている現実。それを、学生使用可能な状態にするためには、まだまだ戦術的な問題がある。そして、学生使用可能な状態にするためには、大きな価値観の転換を、場として引き起こさねばならない。 
@社会運動の場面における、警察権力による「交通整理」と称した「自由歩行権」の侵害。
 国家の意思を受けている国家公務員としての警察官による実質的な支配下にある公道において、しばしば、交通規制が敷かれる。その結果、抗議者は現場に近づけない。抗議する権利が侵害される。五輪に際して、暴力的に抗議者と警察権力が衝突せざるを得ない現実がそこにある。「民主主義国家」として、存在しているはずの「日本」に、極めて暴力的な排除の構造が存在している。そことどのように闘いを構築するのかは、私にとっては、依然として大きな問題。 フレイレの議論を参考にすれば、どのようなことになるのか?国家権力という最大の「暴力装置」を解放するためには、わたしたちはどうするべきなのか? 

 

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 抑圧的な情況になればなるほど、そこには抑圧するものとされるものが存在していくことになる。抑圧された人と本来の意味において連帯して自らの解放のために斗うことにした人は、まず抑圧に対する批判的意識を実践のうちに獲得することが必要になる。
 抑圧的な現状は、そこにいるものをみな、情況に呑み込んでいくような仕組みになっていて、大変な力で人間の意識を埋没させていく。そこから自由になるためには、なんとか埋没させられたところから力で抜け出すようにして、情況を振り返る必要がある。そのためには本来の意味での実践、つまり活動と省察に基づいた実践だけが、これを可能とする。実践とは世界を変えようとする人間の行動と省察のことをいうのである。この実践なしには、抑圧するものとされるものの矛盾を超えることはできない。この矛盾を超えるためには、抑圧されているものがその抑圧の現実を批判することにより、情況を対象化し、同時に情況への働きかけを行うことが必要となる。
 ある現実を知ったとしても、このような批判的な介入(行動)に繋がらないものは、客観的にそこにある現実の変革には至らない。つまり、その認識は本当の意味での認識ではなかったということだ。(pp89-91 一部改変)
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< 1>
「実践とは世界を変えようとする人間の行動と省察のこと」
「抑圧の現実を批判することにより、情況を対象化し情況への働きかけを行うこと」
「抑圧の現実を知っただけでは、認識とは言えず、現実への批判的な介入を行なって初めて、本当の意味での認識に到達する」
→これらの力強い言葉は、抑圧下に置かれているものが、何をなすべきかについてのヒントとなる。そして、抑圧の構造を知りつつ、構造変革をもたらせずにいるものが、何をなすべきかについての認識の深化をもたらす。

<2>
→トイレ問題を抱えた学生のケース 
 高1女子。教室という抑圧された空間の中で、自由にトイレに行けない現実。
 
ワード:

トイレ 

排泄 

排泄物を隔離する文化 

排泄物を隔離排除する文化体系
排泄物をめぐる闘争 

排泄行為から自由になるとは?
排泄行為から解放されるためにできることは何か?
紙おむつの発達は何をもたらすか?
排泄行為の持つ意味の変遷  

排泄物を再活用してきた農業 
 
 教室からトイレに行くという行動は、教室内で抑圧関係にある教師~学生の関係のなかでは、何らかの大きな危機に瀕しない限りは、なかなか訴えられるものではない。
 一方で、トイレに間に合わず、その場で漏らした場合、教室は渦に巻き込まれたかのように、一気に活性化し、無政府状態化する。それを引き起こした学生は、極めて極小化する情況に叩き込まれる。本来は、無政府状態化を作り出した画期的な存在であるにもかかわらず、その意図は打ち消される方向に作用するほどに、排泄物というものは、存在の根拠がない。
 排泄物は、人間にとって不可欠なものだ。栄養を摂取すれば、必ず、必然的に、排泄物が生じる。栄養ができるものだけを摂取することはできない。そこに必ず無駄が発生する。その無駄をどう扱うかをめぐって議論が発生する。
 かつては、排泄物は土に戻し、土壌の栄養化としてリサイクルしてきた。
 下水道の完備は、この概念を打ち壊し、排泄物のリサイクル機能を後景化させ、オモテの場所からの排除の方向に舵を切った。全面化された水洗トイレ。

 一方で、トイレの機能は、多様化した。デラックスなトイレは、極めて衛生的で、そこに何時間でも滞在できるようなものもある。いい香りで充満し、便座は快適、何時間でも本を読める。個食も可能だ。排泄から切り離されたトイレの活用法もある。トイレ会社はそちらの方向に向かって動き出している部分はあるだろう。

 当該学生からの話は、以下のようなもの。

 集団指導の教室では、自分からトイレに行きたいとは、言えない。友達に伝えてもらって、ようやくトイレに行く。
 個別指導の場面では、2時間の指導の場合は、何とかなるが、それが、3時間を超えてくると、言い出せないため、窮することがある。先生に、集中していないと思われたくないから。
 この発言が出た場面で、いくつかの提案を私からはした。トイレに行きたいという意思表示が難しいならば、カードを用意する。トイレカードはT、水を飲みたい場合は、Wといったカードをあらかじめ用意しておく。
 それを提示することで、トイレへの交通権の行使を容易化するのはどうか。音声で権利の行使をするのは、心理的な障壁が高い。
 担当講師自身の無配慮さを一定程度暴き出しながら、このような提案をかけた。

 この提案を実行したとしても、当面する個別指導における抑圧からは、解放されるかもしれない。が、何らトイレ問題そのものの持つ排除機構からは、抜け出せていない。
 
 人間の持つ人間らしいありようとして、排泄行為は、文化的な問題として、完全に排除の対象として存在している。それを補強するかの如く医学的、公衆衛生学的な説明が付け足される。しかし、それは、私たちが排泄物を排除し、そこに含まれている微生物と共存する道を選ばなかったから、今の完全滅菌型の文化が成り立っているのではないか?この文化そのものを問い直す動きは弱い。
 
 排泄物は汚い、という汚物認識を変えずに、私たちは、トイレ問題から解放されうるのだろうか?
 すべての物質は、原子からなっている。原子に清潔も汚いもない。
 この当たり前の価値観から、再度認識を構築することに意味はある。
 私たちを構成しているものには、汚いものも綺麗なものもいずれも混じっている。それが人間。綺麗なものだけを見せようとする行為はあっても良いが、それだけでは必ず破綻する。汚いものを排除するだけでは、行き詰まる。

 近未来において、紙おむつによる排泄が推奨されるようになるかもしれない。そして、排泄物がそのままリサイクル過程に入る。トイレは、リサイクルセンターに代わる、または、紙おむつ配布場所となる。
 乳幼児に行う排泄指導は、人間だけの愚かな行為だった、という総括が、いつの日か医学雑誌に掲載される日が来るかもしれない。
 2021-9-17