被抑圧者の教育学 2−1

L研 2021-10-3に向けて    解放研究 フレイレ被抑圧者の教育学  第2回

 


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 教育者と被教育者は現実にたいしてともに意識を向ける中で、一つの課題を共有する。現実の薄皮をはぎ、批判的に認識するだけでなく、知そのものを再生するという課題である。この課題のもとで、教育者も被教育者も行為の主体となる。不断の省察と行為を通じで、この現実知ともいうべきものに達するとき、かれらは絶えず知を創造する主体として発見しあうことになる。

 このやり方で、自由を追求する主体として被抑圧者が現れるとき、それは偽の参加ではなく、真の参画アンガージュマンとでもいうべきものが現れているのである。pp126-127

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→解放の教育学。教育者と被教育者の境界線を超えていくような試み。立場の違いを超えてその先に、真実を求めようとする姿勢。教えるもの と 教えられるもの との間にある境界線を突破していくための方法は、どのようなものか?

→→【教えるもの】として位置しているときに、【教えられるもの】として位置しているものから、随分とたくさんのことを、教えられてきた。あることがわからない、と告げられることで、自らの行った説明が、全く不十分で、その説明では、伝えたいこととは全く別のものがイメージされている、と知らされる。そのことを通して、今イメージされているものを、変革し、次の像に導くための説明を企てる。

 やがて、そもそも説明しようとしていたこと自体が、ナンセンスで、もっと違う角度からアプローチすればよかったのだ、と教えるものも、教えられるものも、ともに、納得するような場面。このようなことは、今まで、何度もあった。

 【教えれるもの】からの提起に、きちんと耳を傾けることができたとき、<教えるべきこと>の本質的なものが、浮かび上がることが多い。何を伝え合うべきなのか、がその場において、明らかになれば、大抵のことはうまくいく。 

 


→→→支配するもの と 支配されるもの の関係を本質的に転換するための思考の方法としては、どうなるのか?

 暴力的な抑圧装置としての国家と支配される側の民衆の関係性。国家を撃つためには、同じ思考の方法で良いのか?究極の抑圧装置としての国家からの解放とは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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銀行型教育の結果:

 教育はするものはする者、されるものはされる者。

 教師は知っている、生徒は知らない。 

 教師は考える、生徒は教師によって考えさせられる。

 教師は言葉を言う、生徒は言葉を穏やかに聞く。

 教師は鍛錬する、生徒は鍛練される。

 教師が何をやるかを決め、実行し、生徒はそれに従う。

 教師は行動する、生徒は教師の行動を見て自分も行動したような幻想を持つ。

 教師が教育の内容を選ぶ。生徒はその選択に参加することはなく、ただ選ばれたものを受け入れる。

 教師に与えられている権威は職業上の機能的なものであるにもかかわらず、あたかも知そのものの権威を与えられていると混同することで、生徒の自由と対立する。生徒は教師の決定に従わねばならない。

 教師が学びそのものの主体であり、生徒は教師によって単なる対象とされる。(P135)

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→私の周りにいる「教師」と称する者のほぼ全てが、上の枠組みの中でうごめいている。銀行型教育をただただ行なっているに過ぎない教師どもに囲まれて私自身は実践していかざるを得ないと覚悟を決めている。そして、隙あらば「銀行型」教師を打倒し、その方法から脱却させるべく促そうという機会を伺っている、ような存在として、自らを位置付けている。

 そして、私自身は、どうなのか?と省察せざるをえない。

 「ヒヤッとする」部分がもちろんある。いつの間にか、私自身が「銀行型」に落ち込んでいるのではないか?「対話的」なつもりが、「銀行型」な知識の伝授形式に落ちているのではないか?対話か、銀行型か。その2項目の対立を立てることに意味はあるが、実際は、その先にあるもっと深いものを見出さねばならないのだろうと思っている。

 銀行型であれ、対話型であれ、その先がある。「固定的」な真実などどこにもなく、常に流動的に知は動いている。動かすべきなのだ。

 


→→学生と「遊ぶ」こと。「遊ぶ」とは、戯れることではなく、知的な遊びをここでは指している。思考上の遊びといっても良いだろう。

 例えば、y=x+4を導入しようとする。小学生に導入するならば、xに1を入れたら、yは何?他の数を入れたら?とゲームのルールを説明する。あとは、自由に遊ばせる。そして、その遊びの度合いをレベルアップする。白熱的に真剣に遊ぶ。x=10000000078だったら? と桁数を上げてみる。あるいは、負の数を学んでいなくとも、一気に導入してみる。xがマイナス8だったら? などと、投げかける。

 すぐに習得する。なぜならゲームなんだから。

 学生の方から、他のルールが持ち込まれたならば、そのルールに従って遊ぶ。

y=-2x+8 でやろう、などと、持ちかけてもらえるならば、最高。

 ルールは、即興が良い。事前に準備しすぎたら、面白くない。白熱しない。

 その中で、教師も本当に大事なことを学ぶ。面白かったら、いくらでも、人は学ぶのだという当たり前のことを、真に学ぶ。

 


→→→少しばかり、銀行的に導入しても、そのあと対話的な遊びが十分になされたならば、情況は一気に流動化する。銀行型は全く問題にならなくなるほどに。

 事態を流動化させることに、ある種の意識を働かせることには、大いなる意味がある、と私は思う。 

 


→→→→国家の側を向いた教師は、銀行型。子どもの側を向いた教師は対話型。

国家から自由になるためには、国家の言葉で書かれた「検定 教科書」を離れて、自由な教材としてのプリントで、教師の生の言葉で、語り、対話する。

 私は、教科書は使わない。教科書を使うと、言葉が縛られる。教科書に真実が書かれていると、錯覚する。教科書には、教科書的な真実しかない。それは、その場にいるものの真実とは違う。真実が客観的に存在していると考える思考から自由になり、その場における真実を追求していく主体として、存在できるようにすることが教育として必要なこと。

2021-9-22  

 


→→戦前の皇民化教育は、典型的な銀行型教育。

 教育勅語を暗記させる。教師は国家の側を向いて、日の丸掲揚、君が代斉唱。それに従わせるのが教師の役目。

 沖縄における方言禁止令。方言を使ったものに方言札をつけさせて、さらす。

 朝鮮半島では、日本語の強制。民族性を奪い、天皇の元に支配しようとした。

 一つの権力を持った機関【この場合は、戦前日本の帝国主義】による支配の構造を貫徹しようとしていた、とも見える。

 とはいえ、明治期における学校開設以来、一貫して、銀行型で、推し進めてきたともいえる。銀光型の程度問題とも取れる。

 


 なんのために教育勅語を、暗誦させたのか?その目的は、今、まさに、教育勅語復権を狙う総理候補の登場を前にして、考えるに価するものだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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