五輪を解体するための思考様式の模索

東京五輪を解体するための思考

 


五輪を象徴するモニュメントが、晴海埠頭に到着したらしい。

これが、何を象徴しようとしているのか、を考察することからはじめたい。

 


スポーツという名で、大衆に序列をもたらし、競わせ、勝者をたたえる。その一方で、パラリンピックで、「障害者」にも、可能性があると称して、競わせ、分断する。

 


差別分断の装置として存在する五輪のもつ差別性。

 

 

 

 


なぜ、スポーツという名で、我々は、競わねばならないのか?自由に、歩き、走り、蹴り、投げればよい。身体を自由に動かすことに、競争原理を導入しなければならない理由など、どこにもない。

競争主義を煽っているということは、学力競争とともに、もう一つの競争主義として、指弾されてしかるべきものだ。

 

 

 

団体競技が、国家対抗戦として、実施されているがゆえに、国家意識の高揚化が、持ち込まれやすい。日の丸、旭日旗を打ち振りまくろうとする輩が大量発生するのではないか?あるいは、ナショナリズムを鼓舞する演出が、壮絶に、なされるのではないか?

 

 

 

体を動かすということを、競争主義や差別主義と切り離し、自由な動きとして、奪還するために、対五輪との象徴的なスローガンとして、

どのようなものがありえるのか?

 


    タイムレースをやめろ。

    国家別のチーム編成を解体せよ。

    金銀銅のメダルをやめよ。

    表彰台の段差をやめよ。

 

 

 

以上のような価値観をばら撒き続けている五輪を象徴するモニュメントを、解体するための方法とは?

 


    物理的に解体する方法

        風力などの力学的な力を用いて、倒壊させる

    化学的に解体する方法

      溶解させることを通して、無きものとする方法

 


    心理的に解体する方法

         実態として存在したとして、見えなければ、意味をなさない。

         →モニュメントにカバーをかける

         →モニュメントを報道しないように、報道に要請する

 

 

 

 


今私にすぐできることは何か。