希望の教育学 3

@@5

 多文化主義とは、いろいろな文化が単に、併立していることではない。闘い取られた自由であり、それぞれの文化が相互にその存在を尊重しあって、安んじて自分自身であり続ける権利、相互に異なっていることを恐れずに自由に表明し、それでいて共に成長でき、圧倒的に優勢な一文化によって他の諸文化が禁圧されることからくる不断の緊張状態を免れていることを意味している。

 多文化主義が既に確立済みのものとして偽装されるのではなく、たえず創造の過程にあるもの現在制作中のもの、もうこれで良いという終着点の決してない探究の過程として存在するからこそ、緊張が必要となるのである。未完成であるからこそ、探究があり、葛藤が生じる。pp219-220

 


→それぞれの人間にはそれぞれの人間の価値がある。同化ではなく共存。こののとが、多文化主義という用語に込められている、と読める。

 


→→多文化主義を必要としているのはミクロな集団では、家族。異なる文化体系にあるものが、共同生活をする。一方が、他方を抑圧するような家父長制は、一方の文化の抑圧装置として機能してきた。夫婦別姓さえ、闘い取らねばならない価値。多文化主義への道はまだまだ続く。

 


→→→障害児を排除した学校には、多文化主義の芽をつくることからはじめる必要がある。障害児が生きていく場として、普通学級を選べなくなった。障害児の文化的基盤は、抑圧され、排除された。差別と選別の機能を学校は、しばしば果たすわけだが、多文化主義的な発想をもっともっと、導入すべきところだろう。

 男女混合名簿を作成するなど、前進している部分はある。

 


→→→→多文化主義という主張はわかるし、それが原理として成り立つべきだとも思う。例えば、LGBTQ関連の動きにおいては、大きな固まりとしての、L  G B  T Q なわけだが、現実には、無限に性的な指向性など分化しているのが当たり前だと、実は私は思っている。この区分にさえ異議を申し立てたいと思っている。塊を失えば、個々人として意識していかざるを得ない。個に分解しすぎるのは、力を削ぎ落とすことになると思うからこそ、声を落としている。

 宗教的信念 や 幼少期から培われてしまった価値軸 といったものから引き離されない限り、新しい発想は産み出せない。常識という枠に落とし込まれて仕舞えば、その枠からはみ出せない。常識を疑え、そして、新しい常識を創り出せ! 

 

 

 

 


@@@@6

 抑圧情況は、それをどんなに批判的に洞察しても、それだけではなお、被抑圧者は解放されない。もちろん、情況を暴くことは、情況を越える為の一歩ではある。人は、その認識を踏まえて、抑圧をもたらす現実的な諸条件を変革するための政治的な闘いに参加していくからだ。世界を再創造するという希望は、被抑圧者の闘いにとって、不可欠のものだ。教育は現実のヴェールをはぐ、すぐれて認識に関わる営みであるから、それだけでは世界を変えることはできない。pp40-41

 

→見方を変えれば、世界が違って見える。しかし、それだけでは、世界は変わらないという話。

 肉眼で星を見るのと望遠鏡で星を見るのでは、決定的に見える世界が違う。しかし、観察しているだけでは、その星とのリアルな関係性は何も変わらない。その星に行くならば、新しい関係性が始まる。認識の転換から行動の変容につながるべく動かすことは、もう一段レベルの異なる刺激を必要とする。 

 悪性腫瘍の存在を知ると、認識は変わる。しかし、腫瘍自体には変革はない。腫瘍を変革するには、より強い治療行為が必要だ、というのと同じレベルの話。

→→見方を変えれば世界は違って見える。そのことを通して、容易に変わることは確かにある。しかし、大きな構造は変わらない。大きな構造変革をおこして初めて、世界を再創造し得た、とするならば、認識の転換から、その認識に基づいた行動を起こしていかねばならない。

 が、それは、教育関係を超えたところの課題。その入り口までが限界値。

 当該の主体的な条件設定を、きちんとやり切る、というのが、教育関係としてできることの最大限。

→→→私自身のことを書き込んでみる。二十歳前後までは、それほどに強い社会意識もなく大学に入る。その後、親友の自殺というあまりに強すぎる契機により人生観、世界認識、存在そのものを、根底から揺さぶられ、その時までとは、世界が全く違って見えるようになる。認識を転換はしたが、現実は変わらない。

 いくつもの社会運動に関わり、現実との緊張関係を把握し、変革を目指して、生きながらえてはきた。変わったかに見える現実がないわけではない。社会革命が起きたわけではないから、少しずつしか構造の変革はなしえない。

 国会前に数万人集まっただけでは、国家権力には勝てない。もっと大衆的な地殻変動が起きるような主張とともに、新しい人間像や、新しい価値軸を打ち出していかねばならないとおもってはいる。少しでもそのためにできることがあるならば、実践していきたいと、思っている。

→→→→anarchismでも、communismでも、なんでもよい。ismの先には何もないことを知っているから、イズムにそのまま乗ることはできない。私はわたしの道を行くしかない。

 突き抜けたある種の先には、共有できる普遍的な価値の体系が存在するだろうと信じて。