黒い皮膚 白い仮面 

L研 2021-10-10 に向けて  FRANTZ  FANON      黒い皮膚・白い仮面 

 


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 黒人は二つの生の次元を有している。一つは、黒い仲間とともに、他の一つは白人とともに。黒人は、白人といる時と、黒人同士でいる時とでは、行動の仕方が異なる。この分裂は、植民地主義の征服の直接の結果であることは、何の疑いもない。p39

 植民地化された民族はすべて、つまり土着の文化の創造を葬り去られたために劣等コンプレックスを植え付けられた民族はすべて、文明を与える国の言語に対して、すなわち本国の文化に対して位置付けられる。本国の文化的諸価値を自分の価値とすればするだけ、ジャングルの奥から抜け出したことになる。p40-41

 


→異なる文化に属するもの同士の接触場面。文化的な優劣関係。

  文化的植民地下にある状態から、植民地本国の価値観を身につけようとあくせくする様。

  ◉東北から上京した学生が、標準語に同化していく様。

   東北言葉に劣位性を抱いていることがよくわかる現象。アクセント、訛りまで矯正する。

   →東京言葉を、共通語化し中心化したことの問題性を認識していない。

    そこを撃つ姿勢が全くない。

 

→→女同士、男同士といった属性による集団化。在日集団の中の会話。教師集団の中の会話。

など、聞くに耐えない会話を何度となく耳にしてきた。集団の均一性を私は良しとしないが、それは、偏った集団内では、偏った会話が発生しやすく、普遍的な価値に到達しづらいだろうと考えるからだ。

 


→→→一昔前ならば、男性社会に入っていく女性は、男性化していく中で、男性が作った階段を上昇していくのが、当たり前だった。それを、生理休暇や育児休暇といった形で、権利要求してきた歴史がはっきりとある。現在その過程の中にある。部分的には、女の職場として機能してきた「看護職」には、ある種の理想的な姿がそこにあるのかもしれない。 

 


→→→→帝京大学は、東大の植民地だ、という現象。学生大衆は帝京。支配層は、東大出身者が占めている様。ただし、その支配を揺るがす勢力が、非東大組。独立運動があれば、それを全力で潰していく。教授自治権力の過半数を有するように、常に気を配る。依然として現在的に生きている植民地、という概念。植民地経営をいかに円滑に行うかには、違いがあろうとも。

独立戦争をいかに仕掛けるか。現在的な話題につながるものだ。

 


→→日本帝国主義のアジア侵略における日本語の強制過程。植民地本国意識。

  その一方で、戦後独立を回復したのちのアメリカ文化の侵略をどこまでも受け、今や、米語を小学校段階で強制し始めている。世界語として機能し始めた米語を、そのままの価値軸で、属国的に言語植民地化された幼児、小学生に押し付け始めている。

  本国そのままの発音であることを強制し、言語の多様性を認めずに。

  米語をペラペラ喋る日本人を多数作り出したいと考える日本の文科省役人の姿は、今後どのような「日本人」像を国家として、提示していくのだろうか? 2級の米国人化した劣等意識にまみれた日本人? 

 


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劣等意識の奴隷となったニグロと優越意識の奴隷となった白人が、どちらも、神経症的な方向支持線に従って行動している。ニグロは行動に際し、脅迫観念に取り憑かれた神経症に似てくる。黒い皮膚の人間には、自分の個別性を逃れ、自分の存在性を無化しようという企てが見られる。黒い皮膚の人間が非難の声を発するとき、その度に自己疎外が起こる。pp80-81 

 


→被差別者が差別者と接する際に生じる心理的な側面への表現。

 


→→皮膚の色という外形上わかることによる心理的な側面。これは、障害者と健常者の場合に見られる現象として、私の中では理解する。ニグロが白人化しようとする様は、障害者が健常者化しようとするありようと重なって見える。それは、精神の解放ではない、精神の従属に過ぎない。

 


→→→差別者の神経症的な側面。人を一段下に見ることによる、認知の歪み。同じ位置にいるはずのものを、一段下のものと見ることで、優越意識を満たし、人を踏み付けにしている中で、バランスを保とうとする行為。人を踏みつけにしてしか生きていけない精神構造。

 これは、あらゆる差別行為の中で発生している。旧満州で、中国人に対して、「人体実験」として、数々の恐ろしいことが行われたが、これは、同類の人間として中国人を見ることができず、一段下の「劣等な」存在として、見ることに「成功している」医師どもが行った蛮行だ。人間を人間として見ることができなくなったものが、「人体実験」という恐ろしい行為を、行っているのだ。中国人=動物として、実験をしていることになる。これこそが、差別行為であり、差別行為を行なっているものには、「差別」であるという認識が発生しないように、前提化されている。だからこそ、行為に及ぶことができる。

 


☆人の中に渦巻く差別意識。それを、乗り越えるために、今、何ができるのか。

 まずは、自分の中に発生したであろう差別意識を取り出し、それを無化していくことだろう。

 その上で、差別意識が発生下起源となる考え方を取り出し、その構造を撃つべく思考と行動を開始するよりない。

 歴史上「ホモ」差別にはすさまじいものがあった。今、LGBTQによる権利回復運動に近い形の存在証明要求運動が展開されていく中で、ようやく、差別意識の解体に向かっている部分があるように思われる。が、「ホモ」=キモい という恐ろしいまでの認識は、反差別運動をしている主体の中でも、しばしば語れてきた。それほどに、根の深い問題であると感じている。被差別者の当該が、別の差別に対しては極めて加害者になるという構造は依然として、どこにでも存在している。

 性を超えるという現実的な姿が必ずしも提起されていない中で、その当該の思いに寄り添うことと、性を歴史的に支えてきた「構造」自体を撃つより、解放を勝ち取るすべはないだろうと思っている。「性別」で行われてきたことの内容を問い、その正当性と蓋然性を問い直し、そこに存在していた「性差」認識を打ち砕くこと。

 

 

 

 

 

 

 


☆皮膚の色に基づく差別観念

 皮膚の色に本来的な差別があるはずはない。白人による領土侵略行為が前提化されて、その結果、白人がその他の皮膚の色の民衆を支配するに至ったという歴史を背負っている。白人中心史観とでもいうべきもの。その結果、黒い皮膚のものが「奴隷」として存在させられてきた歴史があり、それが前提としてあるから差別観念が持続している。

 逆に考えれば、黒色人種が領土拡張侵略行為を繰り出していたならば、黒人が白人を支配していたであろうし、それに基づく差別意識が生み出されていたと考えられる。

 ある一定期間の抑圧行為が成り立ってしまった場合、そこに、その後継続的に続く「差別意識」が存在しうるということなのだろうと、私は理解している。

 

 

 

☆カテゴリー化

 人は、似ている現象をカテゴリーかして、類型化して認識する。分節化といってもよい。

 「赤」と認識する色には、ピンク、オレンジ、赤褐などと隣接しているが、一定の類型化された認識として存在している。一つひとつを命名するわけにいかないから、一定のまとまりを持たせている。

 白人、黒人、混血の3者の区分でカテゴリー化してみる。それぞれの中で、gradationが存在している。白にも色々ある。混血なおさら。どこに位置づいているのか、その枠組みを認識する、させられる行為が問題となる。

 早慶GMARCH日東駒専大東亜帝国など、それぞれのカテゴリーが受験戦線では存在する。

自らの位置を規定しようとする模試の判定と、それを受け入れる・受け入れない主体の問題。その狭間で、人々の心は揺れる。

 ある種のカテゴリー化は避けられないと思うが、その流動性を同時に、認識できるような仕組みを持っていないと、カテゴリーから飛び出せなくなる。カテゴリー化の意味が、永続的に続くはずはないのだから。

 

 

 

☆属性

 人にはそれぞれの属性がある。属性に基づく差別が起きないように、常に意識を高くしておくことは必要だと認識している。

 


 ワクチンを打ったかどうか、も属性になる。

 現在的には、ワクチンパスポートによる差別。これを導入すれば、おそらく差別政策として、機能する。ワクチンを打つのが当たり前、打てないものは人間として劣っている、という意識が作り出されかねない。ワクチンそのものに問題意識を持っているものの存在を無視しして。

 国家が良しとしたことが、常に「良い」ことであるとは限らない。国家の指示に従うのが「正しい」と考える思考が増長すれば、国家の思い通りになる。それは、恐ろしいことだ。

 

 

 


 

2021-10-10