フレイレ 希望の教育学

L研 2021-10-24に向けて 解放研究 フレイレ 希望の教育学 

 


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 意識と世界とがどのように相互に規定しあっているかを弁証法的に理解すれば、被抑圧者の内部に落とされた抑圧者の影、前者の後者に対する癒着と同調、抑圧者を自分の外部に置くことが被抑圧者にとって、いかに困難かといった現象も理解が可能になるだろう。 p147

 民衆の大多数に社会のカラクリについての批判的な理解が欠けているとしても、たまたま生きた条件が劣悪であったために知ることが許されなかったためである。人間がいぶかりを持って問いを発する主体、たえず事物のレゾンデートル(かくある理由)を探求して暴き出していく主体としての責任を引き受けていくのは、批判的な努力を通してである。「世界を読む、言葉を読む」とは言葉だけを読むのではなく、世界だけを読むのでもない。二つの行為を弁証法的に結びつけようとしたのである。「世界を読む」とは、自分が置かれた閉じた情況、つまりそこを一歩踏み越えることで「未然の可能性」が見えてくる所与の情況をますます批判的に読解できるようになっていくということだ。p148

 


→言葉を通して、世界を読む。世界を通して言葉をみがく。と言ったことのだろうと、私的には理解する。世界を把握するためには言葉を通す必要がある。言葉をみがく中で、世界が見えてくる、といった相互関連性を私自身は体験している。

 


→→ 過去の出来事を再解釈することには、価値がある。その当時には見えなかった価値が再発見されることはしばしばある。その昔、教師に激しく叩かれたことがある。小学生だったため、何が起きているのかよく把握できなかった。が、その後、教育学を学んでいくうちに、それが、「体罰」と呼ばれるものであり、殴られたとき、それに反抗してもよかったのだと、知るようになる。教師が絶対で、学生はそれに従うしかない、と考えていた私には、大きな刺激になったことを思い出す。殴られた当時は意味がわからなかったことも、言葉を知る中で、認識が深まり、世界を知ったことになるのだと思う。

 歴史は再解釈される中で現在化される。

 


→→→職場のコピー機からコピー用紙を取り出しただけで、「お前は泥棒か?」というありえない罵声を浴びせられたことがある。その職場に関わり出して、2年目のこと。意味がかわからなかったが、人権の侵害であることははっきりしていたので、謝罪をさせたが、重大な心理的な負荷が今現在残っているほどに、大きなストレスだった。その後当該のものは、「自らが泥棒行為」をしていることが、国家による査察によりバレた。つまり、自らの行為を正当化し、他者をひたすらに罵倒する攻撃することで、なんとか生きながらえていた抑圧者であったことが、後になってわかった、ということだった。他者攻撃による自己防衛。

 おかしなことが起きている、というとき、何がおかしいのかわかないが、時の経過の中で、そこに問題意識を合わせていると、理解が進むことがあるということを、実地に学んだことになる。

 

 

 

 

 

 

 

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 教師の専横化で対話が成立しないように、自由放任主義のもとでも、やはり対話は成立しない。対話的関係は、教える行為を不可能にするものではない。教える行為を基礎付け、それをより完全なものにし、またそれと関連するもう一つの行為である学ぶという行為にも刻印されることになる。両方の行為が真に可能になるのは、教育者の批判的で、決して安住することのない思考が、学生の批判的な思考能力を抑えることなく発揮される時である。それどころか教師の批判的な思考が、学生に波及し、その知的好奇心を掻き立てていくときである。教育者の思考が、被教育者の思考の発展を阻害し、圧迫し、難しくするとなると、そのとき、教育者の権威主義的な思考は、それにさらされた学生たちの中に、ともすると萎縮した真正ならざる思考を誘発し、さらには直接的な反抗を引き起こすことになる。pp164-165

 


→管理されすぎた授業にも、自由すぎる授業にもリアリティがないという話。人は自由すぎると、何をしてよいのかわからなくなる。程よく自由であり、程よく管理されている情況下において、現実とのリアルな変革が、なされるのだろうと感じている。ある種の自由度を与えたとき、束縛された思考から抜け出し、思いもしない発想が飛び出すことが、しばしばある。

 


→→批判的思考という言葉が指していることは、どのようなことか。既知のことでは説明しきれない現実を前にしたとき、既知のことにしがみついて説明するのではなく、既知の言葉に限界があり、それを乗り越えようと新しい言葉を探し、模索するような思考のことを指している、と捉えることは可能だろう。

 常識に従って、まずは考える。しかし、それだけでは済まない問題が見えたとき、次の思考を用意する。常識の限界値を見定め、その先を模索する。

 現実をフラットな平面として眺めず、層を成している曲面として認識し、過去と未来に橋をかけている流動性のあるものとイメージしている。

 


→→→私が作成した問題を学生に解かせると、ときに激烈な反応を引き起こす学生があらわれる。それまでもやもやとしていたことが、その問題の設定を通して、クリアーに視界が広がるといったケース。私の設定した枠組みを凌駕して、その先の枠組みに自然に移行していく流れを見せるケース。

 など、問題作成者の意図とは別に、オリジナルな思考が湧き出してくる場合がたまにある。その際、学生が紡ぎ出す言葉をなるべく丁寧に聞き留めるようにこころがけしている。しばしばその学生の視点の先に、くだらない常識に縛られない世界が広がっている。

 

 

 

→→→→問題意識が学生の体内に浸透する、という経験が何度かある。波動が重なり合って、極大化するような経験。フレイレが言わんとしている事柄は、確かに現実的に存在している。いつもそのような展開になるわけではないのだが、ときにそのようなことが起きる。

 

 

 

→→→→→作文を要求される授業がある。今ならば、小論文にあたる。何らのテーマ性を与えず、自由に書け、と言われたとき、はて、何を表現すべきか?と悩む。これが一つの放任主義

 一方で、管理され切った作文、つまり、表現の方法は、数通りしかないような作文は、書くことによる新しい発見はない。覚えている事を書かせるような作文は、最低中の最低な質しかない。【どこぞの大学の定期試験のような】

 作文を通して求められていることは、文を作る中で、経験を整理し、新しい位置に自らを置く、再配置するようなことが、作文しながら生じるような、そんなプロセスを経るような取り組みを期待している。

 現在の自分が、過去や未来の自分との対話を脳内で行うことによって紡ぎ出されるような言葉を創作する行為が、求められている。

 書くことが世界をつかむことになるという識字教育の思想は一つの真理があると思う。

 【一方で、文字を持たない言語体系においては、世界がつかめないと主張している部分があることにもなり、別立てで、思考が必要と考える。寿で行われていた識字学級への違和感】

 

 

 

 


☆☆高校への漫画、携帯電話の持ち込みが風紀の乱れにつながる、という高校教師の言い分に反論できなかった、という事例。

 この事例から何を学ぶか?

 →教育学校を謳う高校における事例。校則も制服もある。そんな中で発生している。

  漫画は、なぜ風紀を見出すのか?

  漫画という媒体を書籍より一段下の媒体としてみなしてきた文化体系がある。文化闘争を引き起こす中で、はじめて解決する問題。

  携帯電話が、なぜ風紀を見出すか?その扱い方をはっきりさせれば、うまく新しい形で利用できる。その後の10年間の中で、携帯の利用法は編み出されてきた。

  学校が変化を受け止めるのには時間がかかる。学校がいかに体制的で、変革の対象とすべきかが、鮮明になる事例。