希望の教育学 2

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 被抑圧者の恐怖の感情が、個人レベルでも、階級レベルでも、闘いを圧し阻んでいるのである。恐怖は抽象的なものではないし、恐怖の原因がわかれば消えるといったものでもない。それはすこぶる具体的もしくは具体的とみえる動因によってもたらされるものであるから、対策も具体的であるほかはない。

 運動のリーダーに求められることは、現実を批判的に解読しながら、どんな行動を、どの程度、実行に移すかを戦術的に解明することだ。別な言い方をすれば、今日できないことを明日おこなうために、今何をすることが可能か、という問いを立てることだ。

 抑圧者の脆弱性がはっきりと見えて来たまさにそのときこそが、闘争の転換点なのであって、そのチャンスを見誤らずに目標を定めることが被抑圧者にとって決定的に重要だ。実際、被抑圧者が抑圧者を不敗の存在、どうあがいても動かしようのない強大な力の持ち主と考えている間は、自分たちの力に大きな信頼を寄せることはできない。

 進歩的民衆教育の任務の一つは、社会的諸対立がどのようにして生まれてくるかを批判的に理解することを通して、抑圧者のまさにその弱さが、抑圧者の強大な力を弱さに転ずることのできる力となる、その逆転のプロセスを促進することで、それはかつても今も変わらざるところだ。これが、我々を動かす 希望 というものである。 pp174-176

 


→被抑圧者における恐怖。自分がわかることの恐怖。抑圧者に目をつけられるのではないか、といった恐怖は必ず発生する。それをテコに抑圧者は被抑圧者を責めてくる。そこを乗り越えられる主体的な力量が整うまでは、立ち上がることはできないし、無理に立たせるべきでもない、という話として、私は読む。今できることを、今やる。そして、たち上がるチャンスを伺う。戦術を練る、といった話として、聞き止める。

 


→→被抑圧者である受験生とそこに関わるリーダーとしての講師の関係を描写する。とても、受かりそうにない大学と認識している間は、合格はない。それなりに学力がつき、受かりそうだな、と感じ始めたときが認識の変換のチャンスで、そこから、大きな闘争が始まる。そのチャンスを逃すと、なかなか次のチャンスが来ない、という、心理機構として、私は把握する。

 


→→→私は私の関与している組織の中で、立ち上がったとき、それはそれなりに「出る杭は打たれる」という現実が降りかかることを知っている。だから、死活問題とならない限りは、何でもかんでも立ち上がる、ということはできない。私の中での主体的な条件が整わない限りは、闘えない。私以外の誰かが、立ち上がってくれないかな、と思うことはしばしばある。しかし、それは期待するだけ野暮で、問題意識を一番持っているものが、立ち上がるしかない、と認識している。

 


→→→→闘争はいつでも勝てるわけではない。しかし、整った主体的な条件の中で、闘える最大ギリギリのことロマで、闘って見る経験はやはり、して見るに値すると私は感じている。

 例えば、何らかの問題に巻き込まれた。その問題を匿名で公表することは、主体的な条件がそれほど整っていなくても、簡単にできる。メールを送信するなり、SNSで公表するなり、容易な時代になった。その先に、進むかどうかは、次の情況の変化を見て決めれば良い。

 


→→→→→私は、国家の行う入試制度に重大な問題があると認識している。文科省が行う入試改革と称するものも「改悪」に過ぎず、学生を適正に配置することに失敗していると考えている。しかし、その現実を容易に変革できるほどに、国家権力の基盤は弱くない。共通テストの導入に際しては、いくつかの行動に決起し、国家の導入を阻止してきた経緯はある。が、そのことを、学生の前で、大きなことで主張することはしないし、しようとも思っていない。国家という抑圧機関と私は、ある種の闘いを継続的に行なっていくことは宿命として存在している。

 が、学生が抱えている抑圧は、国家による抑圧によるものではあるが、それとは位相の異なる別の要因によるものも大きい。希望をもって、未来を描くことは、何よりも必要であると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 アフリカ黒人の長い受難の歴史は、人民の崇高な闘いによって人間化された。だが、依然として、人々の中には、満身の疲労がゆきわたっている。時代は変わったと思い、今や技術が政治教育にとって変わる時代になったと考えていたのである。だが、政治性の衰退は人々の実存的疲労を深め、その宿命論的な性格を確実に強めていたのである。この宿命論の罠にかかると、世界の変革は単なる番外の余興に過ぎないものになる。事実は全く別で、どんな社会にわれわれが生きているのせよ、エンジニア、看護師、歯科医師、教育者、哲学者、生物学者などの養成にあたっては、自らを歴史的、政治的、社会的、文化的存在として、理解することが必須であり、またこの社会がどういう仕組みで動いているかを理解することが重要なのである。単に技術的であると僭称する職業訓練のこれはよくなしえないことである。p187

 

→職業教育としてなされている専門教育への批判。職業教育としてなされていることが、銀行型教育の典型としてあること。それを、いかに乗り越えられるのか?についての空論的な書き込み、と私は受け取る。この部分を変革できない限り、世界の変革は成し遂げなれらないだろう。

 


→→専門知とするその知識には、膨大なその知識に至るまでの過程がある。その過程の一つひとつを追い求めるわけにはいかない。が、しかし、その知に至るまでの、いくつかのプロセスを丁寧に学ぶ中で、全体を見渡すという手法は、成り立つものと、私は考えている。専門教育だから、上から叩きつけるように、知識を投げてくる、ということがあって良いものとは思わないし、思えない。圧倒的な知識の海の中で、溺れるものを輩出するのが当たり前、といった情況を放置して良いはずはない。

 


→→→では、専門教育として、何を学ぶべきなのか?細かい知識を暗記させることに、いったいどのような意味があるのか?と思っている学生は五万といる。AI投入時代を前にして、覚えることに意味を見出す体制から早く抜け出し、「使える」知識を習得すべきだという考え方はあり得る。ただし、2流のAIとして。どう頑張っても、AIには勝てない。

 上のような表層的な発想は、対処療法に過ぎない。

 これを、全体として、大きな発想で見渡すということを、していかねばならない。

 医師が哲学的にものを考えられなくて良い、という医師像は、間違っている。

 生命の本質に関わる以上、「生きるとは?死ぬとは?」という問いを当たり前のように、常に意識し、認識を深めている状態でなければならないだろう。

 現在的な医学部教育においては、基本的に「哲学的な問い」を導入することを避け、議論することを避けている。「知識」として、捉えられることだけを、科学的知見と称して、暗記することをただひたすらに強要するという体制のもとで、医師が創り出されている。ゆえに、人間的に優れた医師に出会う機会は、ほとんどない。

 


☆教養教育と専門教育の隙間にある問題。

 教養教育までは、フレイレ流の教育姿勢で、臨めることはわかる。

 が、その先の専門教育となったとき、専門教育とは、いったい何か?という問いから、議論をはじめて、そもそもその教育内容から方法論、目指しているものまで、総ぐるみで、変革が必要なのではないか?とさえ思える。

 その変革力をいかにして創り出せるか?という問いを共有するべきタイミングか?