被抑圧者の教育学 2−1

L研 2021-10-3に向けて    解放研究 フレイレ被抑圧者の教育学  第2回

 


@@@1

 教育者と被教育者は現実にたいしてともに意識を向ける中で、一つの課題を共有する。現実の薄皮をはぎ、批判的に認識するだけでなく、知そのものを再生するという課題である。この課題のもとで、教育者も被教育者も行為の主体となる。不断の省察と行為を通じで、この現実知ともいうべきものに達するとき、かれらは絶えず知を創造する主体として発見しあうことになる。

 このやり方で、自由を追求する主体として被抑圧者が現れるとき、それは偽の参加ではなく、真の参画アンガージュマンとでもいうべきものが現れているのである。pp126-127

@@@@

→解放の教育学。教育者と被教育者の境界線を超えていくような試み。立場の違いを超えてその先に、真実を求めようとする姿勢。教えるもの と 教えられるもの との間にある境界線を突破していくための方法は、どのようなものか?

→→【教えるもの】として位置しているときに、【教えられるもの】として位置しているものから、随分とたくさんのことを、教えられてきた。あることがわからない、と告げられることで、自らの行った説明が、全く不十分で、その説明では、伝えたいこととは全く別のものがイメージされている、と知らされる。そのことを通して、今イメージされているものを、変革し、次の像に導くための説明を企てる。

 やがて、そもそも説明しようとしていたこと自体が、ナンセンスで、もっと違う角度からアプローチすればよかったのだ、と教えるものも、教えられるものも、ともに、納得するような場面。このようなことは、今まで、何度もあった。

 【教えれるもの】からの提起に、きちんと耳を傾けることができたとき、<教えるべきこと>の本質的なものが、浮かび上がることが多い。何を伝え合うべきなのか、がその場において、明らかになれば、大抵のことはうまくいく。 

 


→→→支配するもの と 支配されるもの の関係を本質的に転換するための思考の方法としては、どうなるのか?

 暴力的な抑圧装置としての国家と支配される側の民衆の関係性。国家を撃つためには、同じ思考の方法で良いのか?究極の抑圧装置としての国家からの解放とは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


@@@2

銀行型教育の結果:

 教育はするものはする者、されるものはされる者。

 教師は知っている、生徒は知らない。 

 教師は考える、生徒は教師によって考えさせられる。

 教師は言葉を言う、生徒は言葉を穏やかに聞く。

 教師は鍛錬する、生徒は鍛練される。

 教師が何をやるかを決め、実行し、生徒はそれに従う。

 教師は行動する、生徒は教師の行動を見て自分も行動したような幻想を持つ。

 教師が教育の内容を選ぶ。生徒はその選択に参加することはなく、ただ選ばれたものを受け入れる。

 教師に与えられている権威は職業上の機能的なものであるにもかかわらず、あたかも知そのものの権威を与えられていると混同することで、生徒の自由と対立する。生徒は教師の決定に従わねばならない。

 教師が学びそのものの主体であり、生徒は教師によって単なる対象とされる。(P135)

@@@@

→私の周りにいる「教師」と称する者のほぼ全てが、上の枠組みの中でうごめいている。銀行型教育をただただ行なっているに過ぎない教師どもに囲まれて私自身は実践していかざるを得ないと覚悟を決めている。そして、隙あらば「銀行型」教師を打倒し、その方法から脱却させるべく促そうという機会を伺っている、ような存在として、自らを位置付けている。

 そして、私自身は、どうなのか?と省察せざるをえない。

 「ヒヤッとする」部分がもちろんある。いつの間にか、私自身が「銀行型」に落ち込んでいるのではないか?「対話的」なつもりが、「銀行型」な知識の伝授形式に落ちているのではないか?対話か、銀行型か。その2項目の対立を立てることに意味はあるが、実際は、その先にあるもっと深いものを見出さねばならないのだろうと思っている。

 銀行型であれ、対話型であれ、その先がある。「固定的」な真実などどこにもなく、常に流動的に知は動いている。動かすべきなのだ。

 


→→学生と「遊ぶ」こと。「遊ぶ」とは、戯れることではなく、知的な遊びをここでは指している。思考上の遊びといっても良いだろう。

 例えば、y=x+4を導入しようとする。小学生に導入するならば、xに1を入れたら、yは何?他の数を入れたら?とゲームのルールを説明する。あとは、自由に遊ばせる。そして、その遊びの度合いをレベルアップする。白熱的に真剣に遊ぶ。x=10000000078だったら? と桁数を上げてみる。あるいは、負の数を学んでいなくとも、一気に導入してみる。xがマイナス8だったら? などと、投げかける。

 すぐに習得する。なぜならゲームなんだから。

 学生の方から、他のルールが持ち込まれたならば、そのルールに従って遊ぶ。

y=-2x+8 でやろう、などと、持ちかけてもらえるならば、最高。

 ルールは、即興が良い。事前に準備しすぎたら、面白くない。白熱しない。

 その中で、教師も本当に大事なことを学ぶ。面白かったら、いくらでも、人は学ぶのだという当たり前のことを、真に学ぶ。

 


→→→少しばかり、銀行的に導入しても、そのあと対話的な遊びが十分になされたならば、情況は一気に流動化する。銀行型は全く問題にならなくなるほどに。

 事態を流動化させることに、ある種の意識を働かせることには、大いなる意味がある、と私は思う。 

 


→→→→国家の側を向いた教師は、銀行型。子どもの側を向いた教師は対話型。

国家から自由になるためには、国家の言葉で書かれた「検定 教科書」を離れて、自由な教材としてのプリントで、教師の生の言葉で、語り、対話する。

 私は、教科書は使わない。教科書を使うと、言葉が縛られる。教科書に真実が書かれていると、錯覚する。教科書には、教科書的な真実しかない。それは、その場にいるものの真実とは違う。真実が客観的に存在していると考える思考から自由になり、その場における真実を追求していく主体として、存在できるようにすることが教育として必要なこと。

2021-9-22  

 


→→戦前の皇民化教育は、典型的な銀行型教育。

 教育勅語を暗記させる。教師は国家の側を向いて、日の丸掲揚、君が代斉唱。それに従わせるのが教師の役目。

 沖縄における方言禁止令。方言を使ったものに方言札をつけさせて、さらす。

 朝鮮半島では、日本語の強制。民族性を奪い、天皇の元に支配しようとした。

 一つの権力を持った機関【この場合は、戦前日本の帝国主義】による支配の構造を貫徹しようとしていた、とも見える。

 とはいえ、明治期における学校開設以来、一貫して、銀行型で、推し進めてきたともいえる。銀光型の程度問題とも取れる。

 


 なんのために教育勅語を、暗誦させたのか?その目的は、今、まさに、教育勅語復権を狙う総理候補の登場を前にして、考えるに価するものだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


@@@@3 

被抑圧者の教育学 1回目

フレイレ 被抑圧者の教育学 第1回

 新訳版を読みながら、その文から触発されたことを書き出し、その経験を語る。
 そのレジュメ。1回目。


@@@
自らのなかに抑圧者を宿していることに慣れている被抑圧者が、その2重性と生来のものでないものを体現しているという苦しみの中で、いかにして解放のための教育学に寄与できるのか、ということは大きな問題ではある。しかし、抑圧者は「自らのうちにある」ということを発見したときに、被抑圧者は、解放の教育学の誕生に貢献することができる。なんとか抑圧者のようになろう、そうなりたい、そうなるんだ、という2重性のうちに生きている間は、自らを解放することはできない。被抑圧者の教育学は、抑圧している側から作り上げられていくものではない。被抑圧者の側が、自らも抑圧者も、ともに、非人間的な情況にあることを批判的に発見していくことから作り出される。(pp77-78)
@@@
< 1>
→→→
 構造的に抑圧されたものは、その構造における支配因子の思考に同調している部分があるため、抑圧されている、とは感じづらい部分がある。
 親子の支配関係を見てみる。
 親は子どもを支配している。その形式がどのようなものであれ、支配している。
 心理的に、経済的に、政治的に。
 
 支配の形態を変えることで、被抑圧感は確かに変わる。しかし、形態の変化は、一定の前進ではあるが、根本的な解決にはならない、ともいえる。実質支配が全くない状態を実現するためには、なにが必要か?解放された状態とは?

 →絶対的な自由がないように、絶対的な解放もない。今ある抑圧から解放されて、新たな抑圧関係を意識する中で、次の解放戦略を展望するよりない。

 子どもがやがて親になることで、その抑圧の構造を再生産する。被抑圧者が、新たな抑圧者を作り出している、その姿が、そこにある。
 被抑圧者のなかに、抑圧者に埋め込まれた価値観が、無意識な状態のまま存在しているから、この構造が変わらないのだ。

 抑圧された状態を逃れるために、新たな支配関係を作り出す例は、至る所にある。

<2>
→障害者を例に取る。
 障害者が健常者のように振る舞うことで、「解放」されたかのように錯覚する現実。
 いかに狭い価値観で、もの事を見ているかがわかる現象。

 →→障害者として、くくるその表現自体にも問題はある。
   当該それぞれに、「障害」は異なり、それぞれが、それぞれの人生を生きている。「障害者」として、括られなければならないものはない。 

<3>
→私自身が抑圧されていると感じるものは何か?
@職場における管理、規制、規範。
 ネクタイ闘争、フェイスシールド闘争などは、管理・規制との闘争として、存在している。が、そのことによって、自由になれたのか? 強化に反対しているだけで、反対運動を通して、次の新しい勝ち軸を明確には作り出せていない。その萌芽としては、新しいネクタイの存在形態は、見えてきている。
 コピー機使用闘争は、そのコピー機の使用を全面的に場の利用者すべてに広げようという闘い。職員専用化されたものを、一部奪還して、講師使用可能化させている現実。それを、学生使用可能な状態にするためには、まだまだ戦術的な問題がある。そして、学生使用可能な状態にするためには、大きな価値観の転換を、場として引き起こさねばならない。 
@社会運動の場面における、警察権力による「交通整理」と称した「自由歩行権」の侵害。
 国家の意思を受けている国家公務員としての警察官による実質的な支配下にある公道において、しばしば、交通規制が敷かれる。その結果、抗議者は現場に近づけない。抗議する権利が侵害される。五輪に際して、暴力的に抗議者と警察権力が衝突せざるを得ない現実がそこにある。「民主主義国家」として、存在しているはずの「日本」に、極めて暴力的な排除の構造が存在している。そことどのように闘いを構築するのかは、私にとっては、依然として大きな問題。 フレイレの議論を参考にすれば、どのようなことになるのか?国家権力という最大の「暴力装置」を解放するためには、わたしたちはどうするべきなのか? 

 

@@@@
 抑圧的な情況になればなるほど、そこには抑圧するものとされるものが存在していくことになる。抑圧された人と本来の意味において連帯して自らの解放のために斗うことにした人は、まず抑圧に対する批判的意識を実践のうちに獲得することが必要になる。
 抑圧的な現状は、そこにいるものをみな、情況に呑み込んでいくような仕組みになっていて、大変な力で人間の意識を埋没させていく。そこから自由になるためには、なんとか埋没させられたところから力で抜け出すようにして、情況を振り返る必要がある。そのためには本来の意味での実践、つまり活動と省察に基づいた実践だけが、これを可能とする。実践とは世界を変えようとする人間の行動と省察のことをいうのである。この実践なしには、抑圧するものとされるものの矛盾を超えることはできない。この矛盾を超えるためには、抑圧されているものがその抑圧の現実を批判することにより、情況を対象化し、同時に情況への働きかけを行うことが必要となる。
 ある現実を知ったとしても、このような批判的な介入(行動)に繋がらないものは、客観的にそこにある現実の変革には至らない。つまり、その認識は本当の意味での認識ではなかったということだ。(pp89-91 一部改変)
@@@@

< 1>
「実践とは世界を変えようとする人間の行動と省察のこと」
「抑圧の現実を批判することにより、情況を対象化し情況への働きかけを行うこと」
「抑圧の現実を知っただけでは、認識とは言えず、現実への批判的な介入を行なって初めて、本当の意味での認識に到達する」
→これらの力強い言葉は、抑圧下に置かれているものが、何をなすべきかについてのヒントとなる。そして、抑圧の構造を知りつつ、構造変革をもたらせずにいるものが、何をなすべきかについての認識の深化をもたらす。

<2>
→トイレ問題を抱えた学生のケース 
 高1女子。教室という抑圧された空間の中で、自由にトイレに行けない現実。
 
ワード:

トイレ 

排泄 

排泄物を隔離する文化 

排泄物を隔離排除する文化体系
排泄物をめぐる闘争 

排泄行為から自由になるとは?
排泄行為から解放されるためにできることは何か?
紙おむつの発達は何をもたらすか?
排泄行為の持つ意味の変遷  

排泄物を再活用してきた農業 
 
 教室からトイレに行くという行動は、教室内で抑圧関係にある教師~学生の関係のなかでは、何らかの大きな危機に瀕しない限りは、なかなか訴えられるものではない。
 一方で、トイレに間に合わず、その場で漏らした場合、教室は渦に巻き込まれたかのように、一気に活性化し、無政府状態化する。それを引き起こした学生は、極めて極小化する情況に叩き込まれる。本来は、無政府状態化を作り出した画期的な存在であるにもかかわらず、その意図は打ち消される方向に作用するほどに、排泄物というものは、存在の根拠がない。
 排泄物は、人間にとって不可欠なものだ。栄養を摂取すれば、必ず、必然的に、排泄物が生じる。栄養ができるものだけを摂取することはできない。そこに必ず無駄が発生する。その無駄をどう扱うかをめぐって議論が発生する。
 かつては、排泄物は土に戻し、土壌の栄養化としてリサイクルしてきた。
 下水道の完備は、この概念を打ち壊し、排泄物のリサイクル機能を後景化させ、オモテの場所からの排除の方向に舵を切った。全面化された水洗トイレ。

 一方で、トイレの機能は、多様化した。デラックスなトイレは、極めて衛生的で、そこに何時間でも滞在できるようなものもある。いい香りで充満し、便座は快適、何時間でも本を読める。個食も可能だ。排泄から切り離されたトイレの活用法もある。トイレ会社はそちらの方向に向かって動き出している部分はあるだろう。

 当該学生からの話は、以下のようなもの。

 集団指導の教室では、自分からトイレに行きたいとは、言えない。友達に伝えてもらって、ようやくトイレに行く。
 個別指導の場面では、2時間の指導の場合は、何とかなるが、それが、3時間を超えてくると、言い出せないため、窮することがある。先生に、集中していないと思われたくないから。
 この発言が出た場面で、いくつかの提案を私からはした。トイレに行きたいという意思表示が難しいならば、カードを用意する。トイレカードはT、水を飲みたい場合は、Wといったカードをあらかじめ用意しておく。
 それを提示することで、トイレへの交通権の行使を容易化するのはどうか。音声で権利の行使をするのは、心理的な障壁が高い。
 担当講師自身の無配慮さを一定程度暴き出しながら、このような提案をかけた。

 この提案を実行したとしても、当面する個別指導における抑圧からは、解放されるかもしれない。が、何らトイレ問題そのものの持つ排除機構からは、抜け出せていない。
 
 人間の持つ人間らしいありようとして、排泄行為は、文化的な問題として、完全に排除の対象として存在している。それを補強するかの如く医学的、公衆衛生学的な説明が付け足される。しかし、それは、私たちが排泄物を排除し、そこに含まれている微生物と共存する道を選ばなかったから、今の完全滅菌型の文化が成り立っているのではないか?この文化そのものを問い直す動きは弱い。
 
 排泄物は汚い、という汚物認識を変えずに、私たちは、トイレ問題から解放されうるのだろうか?
 すべての物質は、原子からなっている。原子に清潔も汚いもない。
 この当たり前の価値観から、再度認識を構築することに意味はある。
 私たちを構成しているものには、汚いものも綺麗なものもいずれも混じっている。それが人間。綺麗なものだけを見せようとする行為はあっても良いが、それだけでは必ず破綻する。汚いものを排除するだけでは、行き詰まる。

 近未来において、紙おむつによる排泄が推奨されるようになるかもしれない。そして、排泄物がそのままリサイクル過程に入る。トイレは、リサイクルセンターに代わる、または、紙おむつ配布場所となる。
 乳幼児に行う排泄指導は、人間だけの愚かな行為だった、という総括が、いつの日か医学雑誌に掲載される日が来るかもしれない。
 2021-9-17

タバコ

タバコをめぐるトラブル
 とその先

 紙タバコ喫煙者への排撃は、すさまじさを増している。そこから派生した電子タバコの動きなど、喫煙者を差別する構造は国家、民衆総ぐるみで行われている、得体の知れないものだ。
 タバコを吸っているものがいれば、密告せよ。報奨金を進呈する、的な勢いを感じている。

 渋谷区では、路上喫煙に対し、現行犯で、2,000円徴収することが、条例化されているようで、何人も私の目の前で、支払いを要求されているものを目にしてきた。
 その際、電子タバコでは、徴収しないなど、曖昧な姿勢で、強権的に乗り出してきている。今のところ、警察との連動はうすい、ように見える。

 タバコは、もともと国策会社、日本タバコが、製造してきたものだ。国家が製造して、国家財政を支える存在だったものを、民営化し、今やその使用者を排撃する、その動きは、異様なまでに、ご都合主義だ。

 紙タバコと電子タバコの間の扱いの違いも、その両者間での足の引っ張り合いに発展しかねない危うさを持っている。
 分割して統治し、それぞれをいがみ合わせる、ことで、統治に成功しようとする支配者の思惑が見える。

 差別行為を助長する発言が、とある医師からあったらしい。
 【電子タバコを使用しているものは、コロナウイルスをばら撒きやすい。】
 いやいや待てよ、それはおかしいだろう。
 電子タバコを吸って吐き出す行為と、呼吸に伴う行為を意図的に区別し、呼吸は良いが、深呼吸は悪いと、恣意的な判断を下す医師は劣悪すぎる。我々は迂闊に深呼吸さえできなくなる。そんなバカな話はない。
 どのような呼吸をするか、それは私たちが絶対に手放してはいけない類の自由、というものだ。
 この医師の頭の中には、タバコは悪、だから、この機会に喫煙者をゼロにしてしまえ、という思惑が作用している、と思われる。

 コロナ案件で、幾つもの差別を撒き散らす発言がなされてきた。
 第一波の際、パチンコ屋は、危ない、と言い続けた行政機関。全くのデマだったが、その謝罪はない。それはなぜか?

@@
タバコを吸う自由が抑圧されている。
 酒を飲む自由が、次に抑圧されている。飲み屋はもはや、立ち上がれないほどのダメージを受けている。
 タバコの次は、酒だった。
 タバコを吸う自由が制限されたとき、多くのものは、声を上げなかった。自分は吸わないから関係ない、と言って。

 酒を呑む自由が制限されつつある。しかし、大きな反対運動には、必ずしもなってない。しばらく飲まなければ良いだけだ、と言いながら。

 次に狙われるのは、コーヒーか?タピオカか?
あるいは、ネールか?
 コーヒにも、タピオカにも、ネールにも、それぞれに良くない点と良い点を両面併せ持つ存在だ。その欠点だけを殊更に抽出し、拡大再生産して伝播すれば、世論が形成されかねない。そのような愚かな攻撃に対抗できるだけの力を、私たちは、持っていないと、危ない社会を生きている存在に堕ちてしまう。
 国家がその安定性がぐらついたとき、ターゲットを決めて、暴力的に介入してくる。その際、なるべく広い層が反対運動を起こしていかないと、あっという間に、国家の思い通りの秩序が形成されてしまいかねない。

 そんな時代を今私たちは、生きている。

 苦しい中でも、光を見つけ、そこから広げていくしか道はない。

 SJ 2021.8.13.

 

熱中症 マスク下

熱中症危機との闘い

 とうとうその日が来た。
 2021.8.10.14.00
外気温 37℃。
 エアコンダウン。そのフロアのみ。

 慌てる職員。今まで、ずっと問題にして来た。
暑い、寒いの問題は場の根幹であり、場を失いかねない事態に発展することを、危機意識を持って言ってきた。

 それが、今日とうとう崩壊した。

 エアコンが室内全て、ダウンした。
 窓側は、30度を越え、冷房が効いていたはずの職員室も30度に達した。

 つまり、その場の全員が、熱中症危機に晒されていることになる、と認識できる瞬間が訪れた。

 私にできることは、あくまで指示だしのみ。

 元トップが在室していたので、今がチャンスと、以下の点を伝えた。

 氷を大至急買ってくること。
  室内をとにかく冷やす。
      2時間続いたらアウト。
 個別に氷冷剤を配布すること。
     体温の上昇が発生し始めたらアウト。


 どこに行けば買えるか、という話になり、スーパーなどを当たるように指示だし。

 場の責任者は、だれ?状態。


 私はその場を去って、別の場に移動するが、
 【生き延びてください】と言い残し、場における温度管理を、徹底してほしいと、その場の職員に伝えた。


 今まで、私は、私が使うローカルスペースの問題を提起して来たが、そこは、温度管理が最も困難な場所の一つであり、そこで起きた問題は、他の場所においても起きかねない問題だから、先鋭的に問題が抉り出せると考えて、使用し続けて来た。そして、問題点を挙げて来た。
 
 問題が顕在化する前に、言えることは言って来たつもり。
 光を遮蔽して、断熱材を入れて欲しい、等つい先日も伝えた。

 私は私の実践として、打ち水方式で、タオルに水を浸して、気化熱利用で、室温が上がらないようにしたり、氷冷剤を持ち込んでいる。

 最高気温を記録した今日、ようやく私の主張が受け入れられる、その日としなければならない。

 個人的な要求ではなく、その場を使用するすべてのもののために、要求を上げて来たわけだが、その今が今通じる時が来た、と考えたい。


 そして、昨年度のフェイスガード闘争を思い出す。このような室温の管理下で、フェイスガードなど、あり得ない。人権無視も甚だしい。

 私たちは、生身の人間だ。
 温度管理の破綻した空間では、生きていけない。人権という名で勝ち取らねばならない当たり前の権利を、手に入れるために、闘いを構築するよりない。

 SJ
2021.8.10.15.30.


 追記
  同日夜、激しい頭痛に見舞われる。
  マスク下の熱中症
  油断はできない。あのまま2時間いたら、救急搬送されたかもしれない。

 

 

 

五輪垂れ幕

五輪垂れ幕へのメッセージ

 


 五輪垂れ幕が、都内各所に持ち込まれて一年半になる。その時々に思っていたことがある。

 


 なんのための垂れ幕か?

 だれのための垂れ幕か?

 その使用目的は?

 目的に反することはないか?

 


 そんなことを意識させられながら、時を過ごさざるをえなかった。

 


 日の丸に対する嫌悪感とはまた別の、ある種の嫌悪感を抱き続けた、一年半だった。

 


 五輪が延期になっても、2020の数字を変えないわけだから、2021が本来の数字だ、として、

2020→2021への 自主的な書き換え運動を、やってみようか?と思っていた時期もある。

 ささやかな抵抗運動として。

 同じ想いで、その抵抗運動に、創意工夫を施すものが出てくるかもしれないと、期待しながら。

 0→φ φ Φ

と書き換えることで、そこに、ギリシャ語のファイの意味を持たせ、空集合を表す記号として、機能させることも可能だと、思っている。

 空集合とは、そこには、何も存在していない、という意味だ。

 


 つまり、2020の五輪には何もない、無の存在だ、というメッセージを、そこに込めたことに、成功することになる。

 


 反対運動のゆくえをみながら、さて実際どうするか、と考えていた。

 


 油性マジックインクで、棒線を引く。対象に対して、1秒で終わる。

 マジックテープを貼る。簡単に剥がせるわけだが、犯罪案件としては、立件しづらいのではないか。

 カッターで、縦棒を引き裂く。

 


 など。

 


 犯罪として立件されないレベルで、ささやかだが、確実な抵抗運動として、試みるための方法は何か、考えてみるに値する課題だと今も考えている。

 


 基本スタンスは、間違いを正す。

 2020ではなく、2021である。

 


 間違いがなんであるのかは、個々人の判断による。私自身は、五輪を開催することが間違いだと考えているが、開催の仕方を間違えていると考えたり、開催方法、競技種目、をまちがえている、と考える人もいるだろう。

 反五輪の裾野を広げ、問題意識を深めていくために、各所にて議論が起きることを期待したい。

 


2021.8.8.12.00

 

 

 

 

 

 

 


 

 

ワクチン接種量

ワクチンをめぐる議論 
摂取量

 副作用が強く出るのが、今話題のワクチンの難点のひとつ。
 副作用は、人それぞれで、どのように出るかは、まさに、全く読めない。

 となれば、副作用の出方を、最大げを見積もりながら、行動するよりない、というのが、冷静なはんだ、と思われる。

 しかも、ウイルスの変異の速度はそれなりにはやく、今流行期のデルタ株に、どれほど効くのかは、諸説あるが、要するに、人体実験中である、という話だ。

 そんな中、一つの興味深い試行を耳にした。
 とある医療系の高齢者の話。【副作用が強く出ると困るので、摂取量を規定値の半分にして欲しい。】それを聴いた看護師とは、バチバチの大論争になったらしいのだが、それで押し通したらしい。
 これは、一つの見識で、私たちが今求めているものの一つは、感染しても軽くで済み、重症化しないこと。そのためにワクチンの価値を見出している。
 効くのかどうか分からないワクチンを摂取して、異物摂取による抗体を大量に発生させるがゆえに、発熱したりといった現象が起きているのであれば、ワクチン量を減らして、副作用の軽減を図るのも、ひとつの方法論だろうと、感じた。

 タダで摂取できる、という甘い誘惑の先に、副作用が強く出ても、タダだから我慢するでしょ、的な発想が見え隠れしているようで、気持ちが悪い。

 副作用情報に基づき、それぞれの判断で、必要量のワクチンを接種していくというプロセスがあって、良い、と私は考えるようになった。

 人体実験をすると言うのならば、摂取するワクチン量くらいは、被験者の側で決めさせてもらっても良いだろう。


追加
 半量に全員がすれば、製薬資本の収入は、半減する。それを嫌がって、液量を増やしたままなのか、という疑念が湧く。
 副作用を無視して、液量を維持し、改善しようとしないならば、それは資本の論理が剥き出しになっているにすぎないのではないか?


https://www.jiji.com/jc/article?k=2021010500694&g=int

この記事によれば、すでに半分量の摂取を検討していた模様。

テキトーな話にしか見えない。