被抑圧者の教育学 2−4
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人間は、自らを意識し世界を意識している。つまり、人間は「意識あるからだ」であって、さまざまな条件と自由との間の弁証法的な関係を生きている存在だ。世界から自らを分離し、世界を対象化し、自らの活動から自らを切り離し、自らの活動を決定するポイントを自らの内に、また自らと世界、自らと他者との関係の内に持つことを通して、人間は「限界情況」を乗り越えていくのであり、それは超えることのできない障壁ではなく、実際には存在していないかのようなものである。
pp195-196
→情況を浅く意識すると、「限界」が見えてしまうということ。深く認識すれば、そこに「限界」があるわけでなく、その先に連綿と続く可能性があるにもかかわらず。乗り越えてしまえば、どこに「限界」があったのかと思うほど、容易な障壁でも、当面している際には、巨大な「限界」障壁のように感じられる。この認識の変革プロセスは、学ぶべきものがあるわけだが、当面する巨大な限界情況を一気に突破することは、それを突破できるという実例を前にしないと、どうにもならないというジレンマを抱えているのだと、私自身は思っている。そのジレンマを楽しむことを通して、限界状況を生き抜いていくよりないのではないのか?
→→フレイレの実践の場において、限界情況と強く認識されたのは、「識字教育」場面だと思われる。その場合、幾つもの限界情況の突破場面を目にしているからこそ、「壁」が何なのかが、教育者の側に見えている。つまりは、上から目線で、この言葉が発せられている。このことにまずは注意が必要。その上で、「限界情況」は、当面突破できない類のものが存在することを、私たちは、当たり前のように認識している。だからこそ、「限界」を超えるために、日々ただひたすらに、壁と向き合っているのだ。誰もやったことがないことに挑戦するとは、「壁」だらけの前で、ただただ壁を叩くしかないような実感の中で、ひたすらに進むしかない現実との闘争だと、私自身は認識している。
→→→私は、私自身の実践活動の中で、学生が「限界情況」を意識し、その壁にぶち当たったとき、その壁を共に叩き、打ち壊すために、共に闘うことを実践の主戦場と考えて、生きている。しかし、それは、日々行なっていることであるが故に、その壁は壊せるものだと認識している。上から目線で、学生と向き合っていることを、今再度、自覚する。
しかし、私自身は、ある種の「限界情況」のなかで、当然のように生きている。容易には変革できない「限界情況」のなかで、生きている。もちろんそのことを、学生と共有する中で、同じものとして共感している感覚はある。が、しかし、越えられない壁を容易に越えられるかの如く説く様は、セクト主義的な匂いを感じざるを得ない。それぞれの場面で、「壁を越える」ことはできようとも、常に壁自体は、は存在し、その壁を突破し続ける中でしか、人は生きていけない。と、書き続ける中で、私自身、今ある種の大きな壁の前にたたずんでいるのかもしれないと、認識させられる部分がある。→このことを対話的な内省と呼んでも良いのかもしれない。
→→→→私自身がかつて本気で関わった教育闘争を思い出す。何をどうすれば、より良い情況を作り出せるとわかっていても、現実的には「壁」がある。その壁を突破するために、ひたすらに壁を押す。それでも、完全勝利することはない。ただ、その過程で、「今、押せ!」ということはできる。限界情況との闘いとは、そのような類の懸命すぎるほどに懸命に闘いとっていくしかない類のものなのだと、再認識する機会となった。
↑闘いの内側にいるのか、闘いを外側から見るのか。
動きをもって闘いながら考えるのか、静止した形で分析するのか。
それぞれの視点で、感覚的なものに相違が発生するが故に、考えるに値するテーマとして成り立つ。
☆思考実験
「今日中に20メートル泳げるようにせよ」という強い課題が置かれたする。
それができないと、当該は、大きな負荷を負い、進路上の大きな損失を負う。
当該は、現在3メートルは泳げる。しかし、それが最高値。
それに向き合っている対話者そのものは全く泳げない。残された時間は3時間。
一体どのように、会話を交わし、何をなすべきか。
「限界情況」の設定と、その乗り越えとして、どのようなことを設定できるのか?
2021ー10-1
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科学的客観性という名のもとに意味あるテーマを研究する調査者は、有機的なものを無機的なものに、今動いているものを静止したものに、生きているものを死に変えようとする。つまり、変革を恐れているのである。そこに見ているものを否定はしないが欲しもせず、命の言葉を聞かず、死の告知、つまり堕落を見る。変化というものを知りたいというときも、そこから刺激を受け、鼓舞され、深化するためではなく、変化を押し止めるために知るのである。
変化を恐れ、命を閉じ込めようとし、命の輝きをつまらない硬直した枠組みに推しこめてしまおうとして、人々を受動的な研究の対象としてしまい、変化を見ればそれを死の兆候として受け止め、命を圧殺してしまう。そういうネクロフリアの兆候は隠すこともできない。p215
→フレイレによる既成の科学への批判。
生きているものを、生きているものとして捉えようとしない自然科学。分割して、細胞レベルで考えるのが当たり前になってしまっている生物学。人の顔が見えないミクロレベルの研究。
→→人間の香りのしない自然科学。一人ひとりの研究者、研究対象の姿が見えてこない研究スタイル。フレイレに言わせれば、「変化を恐れている」ということになるらしい。
→→→自然科学は、死然科学であると、言っても良いかもしれないと、私も思う部分がある。面白くない。学問として面白くない。ワクワクしない。ありきたりのつまらない話を聞いても、何もおもしろくない。他人のやった研究成果を聞かされても、だから何なんだ?という気持ちしか湧き出さない。
少し飛び跳ねたことを言おうものならば、その根拠は?などと、学問的な顔をして突っ込んで見せてくる。「科学的客観性」というおよそつまらない議論の上で、いくつもの仮説が吹き飛ばされてきたものと、私は思う。
→→→→今、自然科学が捉えられないものを、「わからない」として切り捨てるのではなく、自然科学の内側に取り込もうとして、もっともっと面白いことを、やれば良いのにと、常々思っている。
→→→→↑自然科学を生き生きとしたものに変革するために、何ができるのか?
自然科学の解体と再編のプロセスは、どのように実現できるのか?
古典物理学が作り出した客観性=再現可能性、決定論的な発想を打倒するためには、どのような思考の準備が必要なのか?
@思考実験
☆超能力は、存在するのか?あるとすると、それをどのように考えれば良いのか?
その対話のプロセスとは? 宗教性を帯びずに、科学性を保ちながら、語るとするならば、どのような形式が成り立つのだろうか?
2021-10-3