希望の教育学 2

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 被抑圧者の恐怖の感情が、個人レベルでも、階級レベルでも、闘いを圧し阻んでいるのである。恐怖は抽象的なものではないし、恐怖の原因がわかれば消えるといったものでもない。それはすこぶる具体的もしくは具体的とみえる動因によってもたらされるものであるから、対策も具体的であるほかはない。

 運動のリーダーに求められることは、現実を批判的に解読しながら、どんな行動を、どの程度、実行に移すかを戦術的に解明することだ。別な言い方をすれば、今日できないことを明日おこなうために、今何をすることが可能か、という問いを立てることだ。

 抑圧者の脆弱性がはっきりと見えて来たまさにそのときこそが、闘争の転換点なのであって、そのチャンスを見誤らずに目標を定めることが被抑圧者にとって決定的に重要だ。実際、被抑圧者が抑圧者を不敗の存在、どうあがいても動かしようのない強大な力の持ち主と考えている間は、自分たちの力に大きな信頼を寄せることはできない。

 進歩的民衆教育の任務の一つは、社会的諸対立がどのようにして生まれてくるかを批判的に理解することを通して、抑圧者のまさにその弱さが、抑圧者の強大な力を弱さに転ずることのできる力となる、その逆転のプロセスを促進することで、それはかつても今も変わらざるところだ。これが、我々を動かす 希望 というものである。 pp174-176

 


→被抑圧者における恐怖。自分がわかることの恐怖。抑圧者に目をつけられるのではないか、といった恐怖は必ず発生する。それをテコに抑圧者は被抑圧者を責めてくる。そこを乗り越えられる主体的な力量が整うまでは、立ち上がることはできないし、無理に立たせるべきでもない、という話として、私は読む。今できることを、今やる。そして、たち上がるチャンスを伺う。戦術を練る、といった話として、聞き止める。

 


→→被抑圧者である受験生とそこに関わるリーダーとしての講師の関係を描写する。とても、受かりそうにない大学と認識している間は、合格はない。それなりに学力がつき、受かりそうだな、と感じ始めたときが認識の変換のチャンスで、そこから、大きな闘争が始まる。そのチャンスを逃すと、なかなか次のチャンスが来ない、という、心理機構として、私は把握する。

 


→→→私は私の関与している組織の中で、立ち上がったとき、それはそれなりに「出る杭は打たれる」という現実が降りかかることを知っている。だから、死活問題とならない限りは、何でもかんでも立ち上がる、ということはできない。私の中での主体的な条件が整わない限りは、闘えない。私以外の誰かが、立ち上がってくれないかな、と思うことはしばしばある。しかし、それは期待するだけ野暮で、問題意識を一番持っているものが、立ち上がるしかない、と認識している。

 


→→→→闘争はいつでも勝てるわけではない。しかし、整った主体的な条件の中で、闘える最大ギリギリのことロマで、闘って見る経験はやはり、して見るに値すると私は感じている。

 例えば、何らかの問題に巻き込まれた。その問題を匿名で公表することは、主体的な条件がそれほど整っていなくても、簡単にできる。メールを送信するなり、SNSで公表するなり、容易な時代になった。その先に、進むかどうかは、次の情況の変化を見て決めれば良い。

 


→→→→→私は、国家の行う入試制度に重大な問題があると認識している。文科省が行う入試改革と称するものも「改悪」に過ぎず、学生を適正に配置することに失敗していると考えている。しかし、その現実を容易に変革できるほどに、国家権力の基盤は弱くない。共通テストの導入に際しては、いくつかの行動に決起し、国家の導入を阻止してきた経緯はある。が、そのことを、学生の前で、大きなことで主張することはしないし、しようとも思っていない。国家という抑圧機関と私は、ある種の闘いを継続的に行なっていくことは宿命として存在している。

 が、学生が抱えている抑圧は、国家による抑圧によるものではあるが、それとは位相の異なる別の要因によるものも大きい。希望をもって、未来を描くことは、何よりも必要であると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 アフリカ黒人の長い受難の歴史は、人民の崇高な闘いによって人間化された。だが、依然として、人々の中には、満身の疲労がゆきわたっている。時代は変わったと思い、今や技術が政治教育にとって変わる時代になったと考えていたのである。だが、政治性の衰退は人々の実存的疲労を深め、その宿命論的な性格を確実に強めていたのである。この宿命論の罠にかかると、世界の変革は単なる番外の余興に過ぎないものになる。事実は全く別で、どんな社会にわれわれが生きているのせよ、エンジニア、看護師、歯科医師、教育者、哲学者、生物学者などの養成にあたっては、自らを歴史的、政治的、社会的、文化的存在として、理解することが必須であり、またこの社会がどういう仕組みで動いているかを理解することが重要なのである。単に技術的であると僭称する職業訓練のこれはよくなしえないことである。p187

 

→職業教育としてなされている専門教育への批判。職業教育としてなされていることが、銀行型教育の典型としてあること。それを、いかに乗り越えられるのか?についての空論的な書き込み、と私は受け取る。この部分を変革できない限り、世界の変革は成し遂げなれらないだろう。

 


→→専門知とするその知識には、膨大なその知識に至るまでの過程がある。その過程の一つひとつを追い求めるわけにはいかない。が、しかし、その知に至るまでの、いくつかのプロセスを丁寧に学ぶ中で、全体を見渡すという手法は、成り立つものと、私は考えている。専門教育だから、上から叩きつけるように、知識を投げてくる、ということがあって良いものとは思わないし、思えない。圧倒的な知識の海の中で、溺れるものを輩出するのが当たり前、といった情況を放置して良いはずはない。

 


→→→では、専門教育として、何を学ぶべきなのか?細かい知識を暗記させることに、いったいどのような意味があるのか?と思っている学生は五万といる。AI投入時代を前にして、覚えることに意味を見出す体制から早く抜け出し、「使える」知識を習得すべきだという考え方はあり得る。ただし、2流のAIとして。どう頑張っても、AIには勝てない。

 上のような表層的な発想は、対処療法に過ぎない。

 これを、全体として、大きな発想で見渡すということを、していかねばならない。

 医師が哲学的にものを考えられなくて良い、という医師像は、間違っている。

 生命の本質に関わる以上、「生きるとは?死ぬとは?」という問いを当たり前のように、常に意識し、認識を深めている状態でなければならないだろう。

 現在的な医学部教育においては、基本的に「哲学的な問い」を導入することを避け、議論することを避けている。「知識」として、捉えられることだけを、科学的知見と称して、暗記することをただひたすらに強要するという体制のもとで、医師が創り出されている。ゆえに、人間的に優れた医師に出会う機会は、ほとんどない。

 


☆教養教育と専門教育の隙間にある問題。

 教養教育までは、フレイレ流の教育姿勢で、臨めることはわかる。

 が、その先の専門教育となったとき、専門教育とは、いったい何か?という問いから、議論をはじめて、そもそもその教育内容から方法論、目指しているものまで、総ぐるみで、変革が必要なのではないか?とさえ思える。

 その変革力をいかにして創り出せるか?という問いを共有するべきタイミングか?

 

 

 

フレイレ 希望の教育学

L研 2021-10-24に向けて 解放研究 フレイレ 希望の教育学 

 


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 意識と世界とがどのように相互に規定しあっているかを弁証法的に理解すれば、被抑圧者の内部に落とされた抑圧者の影、前者の後者に対する癒着と同調、抑圧者を自分の外部に置くことが被抑圧者にとって、いかに困難かといった現象も理解が可能になるだろう。 p147

 民衆の大多数に社会のカラクリについての批判的な理解が欠けているとしても、たまたま生きた条件が劣悪であったために知ることが許されなかったためである。人間がいぶかりを持って問いを発する主体、たえず事物のレゾンデートル(かくある理由)を探求して暴き出していく主体としての責任を引き受けていくのは、批判的な努力を通してである。「世界を読む、言葉を読む」とは言葉だけを読むのではなく、世界だけを読むのでもない。二つの行為を弁証法的に結びつけようとしたのである。「世界を読む」とは、自分が置かれた閉じた情況、つまりそこを一歩踏み越えることで「未然の可能性」が見えてくる所与の情況をますます批判的に読解できるようになっていくということだ。p148

 


→言葉を通して、世界を読む。世界を通して言葉をみがく。と言ったことのだろうと、私的には理解する。世界を把握するためには言葉を通す必要がある。言葉をみがく中で、世界が見えてくる、といった相互関連性を私自身は体験している。

 


→→ 過去の出来事を再解釈することには、価値がある。その当時には見えなかった価値が再発見されることはしばしばある。その昔、教師に激しく叩かれたことがある。小学生だったため、何が起きているのかよく把握できなかった。が、その後、教育学を学んでいくうちに、それが、「体罰」と呼ばれるものであり、殴られたとき、それに反抗してもよかったのだと、知るようになる。教師が絶対で、学生はそれに従うしかない、と考えていた私には、大きな刺激になったことを思い出す。殴られた当時は意味がわからなかったことも、言葉を知る中で、認識が深まり、世界を知ったことになるのだと思う。

 歴史は再解釈される中で現在化される。

 


→→→職場のコピー機からコピー用紙を取り出しただけで、「お前は泥棒か?」というありえない罵声を浴びせられたことがある。その職場に関わり出して、2年目のこと。意味がかわからなかったが、人権の侵害であることははっきりしていたので、謝罪をさせたが、重大な心理的な負荷が今現在残っているほどに、大きなストレスだった。その後当該のものは、「自らが泥棒行為」をしていることが、国家による査察によりバレた。つまり、自らの行為を正当化し、他者をひたすらに罵倒する攻撃することで、なんとか生きながらえていた抑圧者であったことが、後になってわかった、ということだった。他者攻撃による自己防衛。

 おかしなことが起きている、というとき、何がおかしいのかわかないが、時の経過の中で、そこに問題意識を合わせていると、理解が進むことがあるということを、実地に学んだことになる。

 

 

 

 

 

 

 

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 教師の専横化で対話が成立しないように、自由放任主義のもとでも、やはり対話は成立しない。対話的関係は、教える行為を不可能にするものではない。教える行為を基礎付け、それをより完全なものにし、またそれと関連するもう一つの行為である学ぶという行為にも刻印されることになる。両方の行為が真に可能になるのは、教育者の批判的で、決して安住することのない思考が、学生の批判的な思考能力を抑えることなく発揮される時である。それどころか教師の批判的な思考が、学生に波及し、その知的好奇心を掻き立てていくときである。教育者の思考が、被教育者の思考の発展を阻害し、圧迫し、難しくするとなると、そのとき、教育者の権威主義的な思考は、それにさらされた学生たちの中に、ともすると萎縮した真正ならざる思考を誘発し、さらには直接的な反抗を引き起こすことになる。pp164-165

 


→管理されすぎた授業にも、自由すぎる授業にもリアリティがないという話。人は自由すぎると、何をしてよいのかわからなくなる。程よく自由であり、程よく管理されている情況下において、現実とのリアルな変革が、なされるのだろうと感じている。ある種の自由度を与えたとき、束縛された思考から抜け出し、思いもしない発想が飛び出すことが、しばしばある。

 


→→批判的思考という言葉が指していることは、どのようなことか。既知のことでは説明しきれない現実を前にしたとき、既知のことにしがみついて説明するのではなく、既知の言葉に限界があり、それを乗り越えようと新しい言葉を探し、模索するような思考のことを指している、と捉えることは可能だろう。

 常識に従って、まずは考える。しかし、それだけでは済まない問題が見えたとき、次の思考を用意する。常識の限界値を見定め、その先を模索する。

 現実をフラットな平面として眺めず、層を成している曲面として認識し、過去と未来に橋をかけている流動性のあるものとイメージしている。

 


→→→私が作成した問題を学生に解かせると、ときに激烈な反応を引き起こす学生があらわれる。それまでもやもやとしていたことが、その問題の設定を通して、クリアーに視界が広がるといったケース。私の設定した枠組みを凌駕して、その先の枠組みに自然に移行していく流れを見せるケース。

 など、問題作成者の意図とは別に、オリジナルな思考が湧き出してくる場合がたまにある。その際、学生が紡ぎ出す言葉をなるべく丁寧に聞き留めるようにこころがけしている。しばしばその学生の視点の先に、くだらない常識に縛られない世界が広がっている。

 

 

 

→→→→問題意識が学生の体内に浸透する、という経験が何度かある。波動が重なり合って、極大化するような経験。フレイレが言わんとしている事柄は、確かに現実的に存在している。いつもそのような展開になるわけではないのだが、ときにそのようなことが起きる。

 

 

 

→→→→→作文を要求される授業がある。今ならば、小論文にあたる。何らのテーマ性を与えず、自由に書け、と言われたとき、はて、何を表現すべきか?と悩む。これが一つの放任主義

 一方で、管理され切った作文、つまり、表現の方法は、数通りしかないような作文は、書くことによる新しい発見はない。覚えている事を書かせるような作文は、最低中の最低な質しかない。【どこぞの大学の定期試験のような】

 作文を通して求められていることは、文を作る中で、経験を整理し、新しい位置に自らを置く、再配置するようなことが、作文しながら生じるような、そんなプロセスを経るような取り組みを期待している。

 現在の自分が、過去や未来の自分との対話を脳内で行うことによって紡ぎ出されるような言葉を創作する行為が、求められている。

 書くことが世界をつかむことになるという識字教育の思想は一つの真理があると思う。

 【一方で、文字を持たない言語体系においては、世界がつかめないと主張している部分があることにもなり、別立てで、思考が必要と考える。寿で行われていた識字学級への違和感】

 

 

 

 


☆☆高校への漫画、携帯電話の持ち込みが風紀の乱れにつながる、という高校教師の言い分に反論できなかった、という事例。

 この事例から何を学ぶか?

 →教育学校を謳う高校における事例。校則も制服もある。そんな中で発生している。

  漫画は、なぜ風紀を見出すのか?

  漫画という媒体を書籍より一段下の媒体としてみなしてきた文化体系がある。文化闘争を引き起こす中で、はじめて解決する問題。

  携帯電話が、なぜ風紀を見出すか?その扱い方をはっきりさせれば、うまく新しい形で利用できる。その後の10年間の中で、携帯の利用法は編み出されてきた。

  学校が変化を受け止めるのには時間がかかる。学校がいかに体制的で、変革の対象とすべきかが、鮮明になる事例。

 

 

 

 

 

 

黒い皮膚 白い仮面

L研 2021−10−10 に向けて

FRANTZ FANON 黒い皮膚・白い仮面

 


@@@1 黒人は二つの生の次元を有している。一つは、黒い仲間とともに、他の一つは白人とともに。 黒人は、白人といる時と、黒人同士でいる時とでは、行動の仕方が異なる。この分裂は、植民地 主義の征服の直接の結果であることは、何の疑いもない。p39 植民地化された民族はすべて、つまり土着の文化の創造を葬り去られたために劣等コンプレッ クスを植え付けられた民族はすべて、文明を与える国の言語に対して、すなわち本国の文化に対し て位置付けられる。本国の文化的諸価値を自分の価値とすればするだけ、ジャングルの奥から抜 け出したことになる。p40−41
→異なる文化に属するもの同士の接触場面。文化的な優劣関係。 文化的植民地下にある状態から、植民地本国の価値観を身につけようとあくせくする様。 ◉東北から上京した学生が、標準語に同化していく様。 東北言葉に劣位性を抱いていることがよくわかる現象。アクセント、訛りまで矯正する。 →東京言葉を、共通語化し中心化したことの問題性を認識していない。 そこを撃つ姿勢が全くない。

→→女同士、男同士といった属性による集団化。在日集団の中の会話。教師集団の中の会話。
など、聞くに耐えない会話を何度となく耳にしてきた。集団の均一性を私は良しとしないが、そ
れは、偏った集団内では、偏った会話が発生しやすく、普遍的な価値に到達しづらいだろうと考
えるからだ。
→→→一昔前ならば、男性社会に入っていく女性は、男性化していく中で、男性が作った階段を 上昇していくのが、当たり前だった。それを、生理休暇や育児休暇といった形で、権利要求してき た歴史がはっきりとある。現在その過程の中にある。部分的には、女の職場として機能してきた 「看護職」には、ある種の理想的な姿がそこにあるのかもしれない。
→→→→帝京大学は、東大の植民地だ、という現象。学生大衆は帝京。支配層は、東大出身者が
占めている様。ただし、その支配を揺るがす勢力が、非東大組。独立運動があれば、それを全力
で潰していく。教授自治権力の過半数を有するように、常に気を配る。依然として現在的に生き
ている植民地、という概念。植民地経営をいかに円滑に行うかには、違いがあろうとも。
独立戦争をいかに仕掛けるか。現在的な話題につながるものだ。
→→日本帝国主義のアジア侵略における日本語の強制過程。植民地本国意識。 その一方で、戦後独立を回復したのちのアメリカ文化の侵略をどこまでも受け、今や、米語 を小学校段階で強制し始めている。世界語として機能し始めた米語を、そのままの価値軸で、属 国的に言語植民地化された幼児、小学生に押し付け始めている。 本国そのままの発音であることを強制し、言語の多様性を認めずに。 米語をペラペラ喋る日本人を多数作り出したいと考える日本の文科省役人の姿は、今後どの ような「日本人」像を国家として、提示していくのだろうか? 2級の米国人化した劣等意識にま みれた日本人?

 

 

 

 


@@@@2

劣等意識の奴隷となったニグロと優越意識の奴隷となった白人が、どちらも、神経症的な方向支 持線に従って行動している。ニグロは行動に際し、脅迫観念に取り憑かれた神経症に似てくる。 黒い皮膚の人間には、自分の個別性を逃れ、自分の存在性を無化しようという企てが見られる。 黒い皮膚の人間が非難の声を発するとき、その度に自己疎外が起こる。pp80-81
→被差別者が差別者と接する際に生じる心理的な側面への表現。
→→皮膚の色という外形上わかることによる心理的な側面。これは、障害者と健常者の場合に見 られる現象として、私の中では理解する。ニグロが白人化しようとする様は、障害者が健常者化 しようとするありようと重なって見える。それは、精神の解放ではない、精神の従属に過ぎな い。
→→→差別者の神経症的な側面。人を一段下に見ることによる、認知の歪み。同じ位置にいるは ずのものを、一段下のものと見ることで、優越意識を満たし、人を踏み付けにしている中で、バラ ンスを保とうとする行為。人を踏みつけにしてしか生きていけない精神構造。 これは、あらゆる差別行為の中で発生している。旧満州で、中国人に対して、「人体実験」とし て、数々の恐ろしいことが行われたが、これは、同類の人間として中国人を見ることができず、一 段下の「劣等な」存在として、見ることに「成功している」医師どもが行った蛮行だ。人間を人 間として見ることができなくなったものが、「人体実験」という恐ろしい行為を、行っているの だ。中国人=動物として、実験をしていることになる。これこそが、差別行為であり、差別行為を 行なっているものには、「差別」であるという認識が発生しないように、前提化されている。だ からこそ、行為に及ぶことができる。
☆人の中に渦巻く差別意識。それを、乗り越えるために、今、何ができるのか。 まずは、自分の中に発生したであろう差別意識を取り出し、それを無化していくことだろう。 その上で、差別意識が発生下起源となる考え方を取り出し、その構造を撃つべく思考と行動を 開始するよりない。 歴史上「ホモ」差別にはすさまじいものがあった。今、LGBTQによる権利回復運動に近い形の 存在証明要求運動が展開されていく中で、ようやく、差別意識の解体に向かっている部分がある ように思われる。が、「ホモ」=キモい という恐ろしいまでの認識は、反差別運動をしている 主体の中でも、しばしば語れてきた。それほどに、根の深い問題であると感じている。被差別者 の当該が、別の差別に対しては極めて加害者になるという構造は依然として、どこにでも存在して いる。 性を超えるという現実的な姿が必ずしも提起されていない中で、その当該の思いに寄り添うこ とと、性を歴史的に支えてきた「構造」自体を撃つより、解放を勝ち取るすべはないだろうと思っ ている。「性別」で行われてきたことの内容を問い、その正当性と蓋然性を問い直し、そこに存 在していた「性差」認識を打ち砕くこと。

 


☆皮膚の色に基づく差別観念 皮膚の色に本来的な差別があるはずはない。白人による領土侵略行為が前提化されて、その結 果、白人がその他の皮膚の色の民衆を支配するに至ったという歴史を背負っている。白人中心史

観とでもいうべきもの。その結果、黒い皮膚のものが「奴隷」として存在させられてきた歴史が あり、それが前提としてあるから差別観念が持続している。 逆に考えれば、黒色人種が領土拡張侵略行為を繰り出していたならば、黒人が白人を支配して いたであろうし、それに基づく差別意識が生み出されていたと考えられる。 ある一定期間の抑圧行為が成り立ってしまった場合、そこに、その後継続的に続く「差別意 識」が存在しうるということなのだろうと、私は理解している。
☆カテゴリー化 人は、似ている現象をカテゴリーかして、類型化して認識する。分節化といってもよい。 「赤」と認識する色には、ピンク、オレンジ、赤褐などと隣接しているが、一定の類型化された 認識として存在している。一つひとつを命名するわけにいかないから、一定のまとまりを持たせ ている。 白人、黒人、混血の3者の区分でカテゴリー化してみる。それぞれの中で、gradationが存在して いる。白にも色々ある。混血なおさら。どこに位置づいているのか、その枠組みを認識する、さ せられる行為が問題となる。 早慶GMARCH日東駒専大東亜帝国など、それぞれのカテゴリーが受験戦線では存在する。 自らの位置を規定しようとする模試の判定と、それを受け入れる・受け入れない主体の問題。そ の狭間で、人々の心は揺れる。 ある種のカテゴリー化は避けられないと思うが、その流動性を同時に、認識できるような仕組 みを持っていないと、カテゴリーから飛び出せなくなる。カテゴリー化の意味が、永続的に続く はずはないのだから。

 

 


☆属性
人にはそれぞれの属性がある。属性に基づく差別が起きないように、常に意識を高くしておく
ことは必要だと認識している。
ワクチンを打ったかどうか、も属性になる。
現在的には、ワクチンパスポートによる差別。これを導入すれば、おそらく差別政策として、機
能する。ワクチンを打つのが当たり前、打てないものは人間として劣っている、という意識が作
り出されかねない。ワクチンそのものに問題意識を持っているものの存在を無視しして。
国家が良しとしたことが、常に「良い」ことであるとは限らない。国家の指示に従うのが「正
しい」と考える思考が増長すれば、国家の思い通りになる。それは、恐ろしいことだ。


2021−10−10

黒い皮膚 白い仮面 

L研 2021-10-10 に向けて  FRANTZ  FANON      黒い皮膚・白い仮面 

 


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 黒人は二つの生の次元を有している。一つは、黒い仲間とともに、他の一つは白人とともに。黒人は、白人といる時と、黒人同士でいる時とでは、行動の仕方が異なる。この分裂は、植民地主義の征服の直接の結果であることは、何の疑いもない。p39

 植民地化された民族はすべて、つまり土着の文化の創造を葬り去られたために劣等コンプレックスを植え付けられた民族はすべて、文明を与える国の言語に対して、すなわち本国の文化に対して位置付けられる。本国の文化的諸価値を自分の価値とすればするだけ、ジャングルの奥から抜け出したことになる。p40-41

 


→異なる文化に属するもの同士の接触場面。文化的な優劣関係。

  文化的植民地下にある状態から、植民地本国の価値観を身につけようとあくせくする様。

  ◉東北から上京した学生が、標準語に同化していく様。

   東北言葉に劣位性を抱いていることがよくわかる現象。アクセント、訛りまで矯正する。

   →東京言葉を、共通語化し中心化したことの問題性を認識していない。

    そこを撃つ姿勢が全くない。

 

→→女同士、男同士といった属性による集団化。在日集団の中の会話。教師集団の中の会話。

など、聞くに耐えない会話を何度となく耳にしてきた。集団の均一性を私は良しとしないが、それは、偏った集団内では、偏った会話が発生しやすく、普遍的な価値に到達しづらいだろうと考えるからだ。

 


→→→一昔前ならば、男性社会に入っていく女性は、男性化していく中で、男性が作った階段を上昇していくのが、当たり前だった。それを、生理休暇や育児休暇といった形で、権利要求してきた歴史がはっきりとある。現在その過程の中にある。部分的には、女の職場として機能してきた「看護職」には、ある種の理想的な姿がそこにあるのかもしれない。 

 


→→→→帝京大学は、東大の植民地だ、という現象。学生大衆は帝京。支配層は、東大出身者が占めている様。ただし、その支配を揺るがす勢力が、非東大組。独立運動があれば、それを全力で潰していく。教授自治権力の過半数を有するように、常に気を配る。依然として現在的に生きている植民地、という概念。植民地経営をいかに円滑に行うかには、違いがあろうとも。

独立戦争をいかに仕掛けるか。現在的な話題につながるものだ。

 


→→日本帝国主義のアジア侵略における日本語の強制過程。植民地本国意識。

  その一方で、戦後独立を回復したのちのアメリカ文化の侵略をどこまでも受け、今や、米語を小学校段階で強制し始めている。世界語として機能し始めた米語を、そのままの価値軸で、属国的に言語植民地化された幼児、小学生に押し付け始めている。

  本国そのままの発音であることを強制し、言語の多様性を認めずに。

  米語をペラペラ喋る日本人を多数作り出したいと考える日本の文科省役人の姿は、今後どのような「日本人」像を国家として、提示していくのだろうか? 2級の米国人化した劣等意識にまみれた日本人? 

 


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劣等意識の奴隷となったニグロと優越意識の奴隷となった白人が、どちらも、神経症的な方向支持線に従って行動している。ニグロは行動に際し、脅迫観念に取り憑かれた神経症に似てくる。黒い皮膚の人間には、自分の個別性を逃れ、自分の存在性を無化しようという企てが見られる。黒い皮膚の人間が非難の声を発するとき、その度に自己疎外が起こる。pp80-81 

 


→被差別者が差別者と接する際に生じる心理的な側面への表現。

 


→→皮膚の色という外形上わかることによる心理的な側面。これは、障害者と健常者の場合に見られる現象として、私の中では理解する。ニグロが白人化しようとする様は、障害者が健常者化しようとするありようと重なって見える。それは、精神の解放ではない、精神の従属に過ぎない。

 


→→→差別者の神経症的な側面。人を一段下に見ることによる、認知の歪み。同じ位置にいるはずのものを、一段下のものと見ることで、優越意識を満たし、人を踏み付けにしている中で、バランスを保とうとする行為。人を踏みつけにしてしか生きていけない精神構造。

 これは、あらゆる差別行為の中で発生している。旧満州で、中国人に対して、「人体実験」として、数々の恐ろしいことが行われたが、これは、同類の人間として中国人を見ることができず、一段下の「劣等な」存在として、見ることに「成功している」医師どもが行った蛮行だ。人間を人間として見ることができなくなったものが、「人体実験」という恐ろしい行為を、行っているのだ。中国人=動物として、実験をしていることになる。これこそが、差別行為であり、差別行為を行なっているものには、「差別」であるという認識が発生しないように、前提化されている。だからこそ、行為に及ぶことができる。

 


☆人の中に渦巻く差別意識。それを、乗り越えるために、今、何ができるのか。

 まずは、自分の中に発生したであろう差別意識を取り出し、それを無化していくことだろう。

 その上で、差別意識が発生下起源となる考え方を取り出し、その構造を撃つべく思考と行動を開始するよりない。

 歴史上「ホモ」差別にはすさまじいものがあった。今、LGBTQによる権利回復運動に近い形の存在証明要求運動が展開されていく中で、ようやく、差別意識の解体に向かっている部分があるように思われる。が、「ホモ」=キモい という恐ろしいまでの認識は、反差別運動をしている主体の中でも、しばしば語れてきた。それほどに、根の深い問題であると感じている。被差別者の当該が、別の差別に対しては極めて加害者になるという構造は依然として、どこにでも存在している。

 性を超えるという現実的な姿が必ずしも提起されていない中で、その当該の思いに寄り添うことと、性を歴史的に支えてきた「構造」自体を撃つより、解放を勝ち取るすべはないだろうと思っている。「性別」で行われてきたことの内容を問い、その正当性と蓋然性を問い直し、そこに存在していた「性差」認識を打ち砕くこと。

 

 

 

 

 

 

 


☆皮膚の色に基づく差別観念

 皮膚の色に本来的な差別があるはずはない。白人による領土侵略行為が前提化されて、その結果、白人がその他の皮膚の色の民衆を支配するに至ったという歴史を背負っている。白人中心史観とでもいうべきもの。その結果、黒い皮膚のものが「奴隷」として存在させられてきた歴史があり、それが前提としてあるから差別観念が持続している。

 逆に考えれば、黒色人種が領土拡張侵略行為を繰り出していたならば、黒人が白人を支配していたであろうし、それに基づく差別意識が生み出されていたと考えられる。

 ある一定期間の抑圧行為が成り立ってしまった場合、そこに、その後継続的に続く「差別意識」が存在しうるということなのだろうと、私は理解している。

 

 

 

☆カテゴリー化

 人は、似ている現象をカテゴリーかして、類型化して認識する。分節化といってもよい。

 「赤」と認識する色には、ピンク、オレンジ、赤褐などと隣接しているが、一定の類型化された認識として存在している。一つひとつを命名するわけにいかないから、一定のまとまりを持たせている。

 白人、黒人、混血の3者の区分でカテゴリー化してみる。それぞれの中で、gradationが存在している。白にも色々ある。混血なおさら。どこに位置づいているのか、その枠組みを認識する、させられる行為が問題となる。

 早慶GMARCH日東駒専大東亜帝国など、それぞれのカテゴリーが受験戦線では存在する。

自らの位置を規定しようとする模試の判定と、それを受け入れる・受け入れない主体の問題。その狭間で、人々の心は揺れる。

 ある種のカテゴリー化は避けられないと思うが、その流動性を同時に、認識できるような仕組みを持っていないと、カテゴリーから飛び出せなくなる。カテゴリー化の意味が、永続的に続くはずはないのだから。

 

 

 

☆属性

 人にはそれぞれの属性がある。属性に基づく差別が起きないように、常に意識を高くしておくことは必要だと認識している。

 


 ワクチンを打ったかどうか、も属性になる。

 現在的には、ワクチンパスポートによる差別。これを導入すれば、おそらく差別政策として、機能する。ワクチンを打つのが当たり前、打てないものは人間として劣っている、という意識が作り出されかねない。ワクチンそのものに問題意識を持っているものの存在を無視しして。

 国家が良しとしたことが、常に「良い」ことであるとは限らない。国家の指示に従うのが「正しい」と考える思考が増長すれば、国家の思い通りになる。それは、恐ろしいことだ。

 

 

 


 

2021-10-10 

被抑圧者の教育学 2−4

@@@@9

  人間は、自らを意識し世界を意識している。つまり、人間は「意識あるからだ」であって、さまざまな条件と自由との間の弁証法的な関係を生きている存在だ。世界から自らを分離し、世界を対象化し、自らの活動から自らを切り離し、自らの活動を決定するポイントを自らの内に、また自らと世界、自らと他者との関係の内に持つことを通して、人間は「限界情況」を乗り越えていくのであり、それは超えることのできない障壁ではなく、実際には存在していないかのようなものである。

pp195-196

 


→情況を浅く意識すると、「限界」が見えてしまうということ。深く認識すれば、そこに「限界」があるわけでなく、その先に連綿と続く可能性があるにもかかわらず。乗り越えてしまえば、どこに「限界」があったのかと思うほど、容易な障壁でも、当面している際には、巨大な「限界」障壁のように感じられる。この認識の変革プロセスは、学ぶべきものがあるわけだが、当面する巨大な限界情況を一気に突破することは、それを突破できるという実例を前にしないと、どうにもならないというジレンマを抱えているのだと、私自身は思っている。そのジレンマを楽しむことを通して、限界状況を生き抜いていくよりないのではないのか?

 


→→フレイレの実践の場において、限界情況と強く認識されたのは、「識字教育」場面だと思われる。その場合、幾つもの限界情況の突破場面を目にしているからこそ、「壁」が何なのかが、教育者の側に見えている。つまりは、上から目線で、この言葉が発せられている。このことにまずは注意が必要。その上で、「限界情況」は、当面突破できない類のものが存在することを、私たちは、当たり前のように認識している。だからこそ、「限界」を超えるために、日々ただひたすらに、壁と向き合っているのだ。誰もやったことがないことに挑戦するとは、「壁」だらけの前で、ただただ壁を叩くしかないような実感の中で、ひたすらに進むしかない現実との闘争だと、私自身は認識している。

 


→→→私は、私自身の実践活動の中で、学生が「限界情況」を意識し、その壁にぶち当たったとき、その壁を共に叩き、打ち壊すために、共に闘うことを実践の主戦場と考えて、生きている。しかし、それは、日々行なっていることであるが故に、その壁は壊せるものだと認識している。上から目線で、学生と向き合っていることを、今再度、自覚する。

 しかし、私自身は、ある種の「限界情況」のなかで、当然のように生きている。容易には変革できない「限界情況」のなかで、生きている。もちろんそのことを、学生と共有する中で、同じものとして共感している感覚はある。が、しかし、越えられない壁を容易に越えられるかの如く説く様は、セクト主義的な匂いを感じざるを得ない。それぞれの場面で、「壁を越える」ことはできようとも、常に壁自体は、は存在し、その壁を突破し続ける中でしか、人は生きていけない。と、書き続ける中で、私自身、今ある種の大きな壁の前にたたずんでいるのかもしれないと、認識させられる部分がある。→このことを対話的な内省と呼んでも良いのかもしれない。

 


→→→→私自身がかつて本気で関わった教育闘争を思い出す。何をどうすれば、より良い情況を作り出せるとわかっていても、現実的には「壁」がある。その壁を突破するために、ひたすらに壁を押す。それでも、完全勝利することはない。ただ、その過程で、「今、押せ!」ということはできる。限界情況との闘いとは、そのような類の懸命すぎるほどに懸命に闘いとっていくしかない類のものなのだと、再認識する機会となった。

 


↑闘いの内側にいるのか、闘いを外側から見るのか。

 動きをもって闘いながら考えるのか、静止した形で分析するのか。

 それぞれの視点で、感覚的なものに相違が発生するが故に、考えるに値するテーマとして成り立つ。

 


☆思考実験

 「今日中に20メートル泳げるようにせよ」という強い課題が置かれたする。

それができないと、当該は、大きな負荷を負い、進路上の大きな損失を負う。

 当該は、現在3メートルは泳げる。しかし、それが最高値。

 それに向き合っている対話者そのものは全く泳げない。残された時間は3時間。

 一体どのように、会話を交わし、何をなすべきか。

 

 「限界情況」の設定と、その乗り越えとして、どのようなことを設定できるのか?

 


2021ー10-1 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


@@@@10

 科学的客観性という名のもとに意味あるテーマを研究する調査者は、有機的なものを無機的なものに、今動いているものを静止したものに、生きているものを死に変えようとする。つまり、変革を恐れているのである。そこに見ているものを否定はしないが欲しもせず、命の言葉を聞かず、死の告知、つまり堕落を見る。変化というものを知りたいというときも、そこから刺激を受け、鼓舞され、深化するためではなく、変化を押し止めるために知るのである。

 変化を恐れ、命を閉じ込めようとし、命の輝きをつまらない硬直した枠組みに推しこめてしまおうとして、人々を受動的な研究の対象としてしまい、変化を見ればそれを死の兆候として受け止め、命を圧殺してしまう。そういうネクロフリアの兆候は隠すこともできない。p215 

 


フレイレによる既成の科学への批判。

 生きているものを、生きているものとして捉えようとしない自然科学。分割して、細胞レベルで考えるのが当たり前になってしまっている生物学。人の顔が見えないミクロレベルの研究。

 


→→人間の香りのしない自然科学。一人ひとりの研究者、研究対象の姿が見えてこない研究スタイル。フレイレに言わせれば、「変化を恐れている」ということになるらしい。

 


→→→自然科学は、死然科学であると、言っても良いかもしれないと、私も思う部分がある。面白くない。学問として面白くない。ワクワクしない。ありきたりのつまらない話を聞いても、何もおもしろくない。他人のやった研究成果を聞かされても、だから何なんだ?という気持ちしか湧き出さない。

 少し飛び跳ねたことを言おうものならば、その根拠は?などと、学問的な顔をして突っ込んで見せてくる。「科学的客観性」というおよそつまらない議論の上で、いくつもの仮説が吹き飛ばされてきたものと、私は思う。

 


→→→→今、自然科学が捉えられないものを、「わからない」として切り捨てるのではなく、自然科学の内側に取り込もうとして、もっともっと面白いことを、やれば良いのにと、常々思っている。

 

 

 

 

 

 

→→→→↑自然科学を生き生きとしたものに変革するために、何ができるのか?

 自然科学の解体と再編のプロセスは、どのように実現できるのか?

 古典物理学が作り出した客観性=再現可能性、決定論的な発想を打倒するためには、どのような思考の準備が必要なのか?

 

@思考実験

☆超能力は、存在するのか?あるとすると、それをどのように考えれば良いのか?

 その対話のプロセスとは? 宗教性を帯びずに、科学性を保ちながら、語るとするならば、どのような形式が成り立つのだろうか?

 


2021-10-3

被抑圧者の教育学 2−3

@@@@6

 真実の言葉というものは、世界を変革する力がある。人間として存在するということは、世界を言葉に出して主体的に肯定して引き受け、その上で世界を変えていくことである。引き受けられた世界は、引き受けたものにさらなる問題を返し、さらに言葉による工程を進めるべく迫ってくることになる。

 対話とは世界を媒介とする人間同士の出会いであり、世界を引き受けるためのものである。p172

→言葉の持つ真実性。真実の言葉。情況を捉えた言葉、というものが確かに存在している。世界を引き受け、引き受けた世界を変革の対象とする。世界の変革と自己変革が同時に進行する。

 世界の変革と、自己の変革をつなぐものとして、対話がある。対話を通して、人は変わる。変革されていく。

→→「人を変えようする前に、まず自分が変われ。」「他者変革の前に、自己変革を!」と言った言葉が、かつて解放教育でよく用いられていた。子どもを変えたいのならば、まず、教師自らの行動を改め、教師自らが変革して、子どもの前に登場せよ、と言った言葉が、話されていた当時を思い出す。

→→→学生運動の中で、明らかに異なる思考形態を持っている学生に対して、相当に粘り強く、対話を重ねたことがある。「とにかくこの闘争場面を見て欲しい。参加する、しないなど関係ない。闘争の現場に立ち、それをみてほしい。それだけが私の願い」と何度となく説得を重ねた。すると、嫌がっていた当該の心が開き、言葉の糸がつながった。「検討させていただきます」という言葉が出て、実際に当日、闘争の現場に現れてくれたのだ。

 私にとって、この場面は、とても大きな意味を持った。無理筋だろうと、思っていた説得が、現実に対話する中で、無理筋でもなく、ある回路で、離れていた思考がつながっていく。対話というものの持つ力を実感した場面だった。

 


→→→→真実の言葉のもつ力。私は、嘘だと思って言葉を使うことはしない。対話は真実の言葉のぶつかり合いなのだと思っている。対話は科学ではない。対話は、科学の対象ではなく、文学の対象だろうとさえ思う。

 自己をさらけ出すと、対話という場面では、大きな力を発揮することがしばしばある。さらけ出すべき自己の経験が、場を支配することもある。しかし、発言者の意図とは、異なる次元にこの話が移行することもしばしばある。経験は、絶対的なものではありえない。個人には個人的な主観が必ずある。それを対話によって一定程度は共有できるが、違いは違いとして認め合うということも必要なのだろう。

 全てを理解し合うことは原理的にできない。しかし、わかり合おうとすることは、無限にできる。            2021-9-27

@@@@7 

 現実に起こっていることを固定されたものとしてとらえるのではなく、プロセスととらえ、常に生成されていくもとして捉えるということだ。自らを常に動的な状態に置き、危険はあっても怖れることなく、今この時に浸るということである。

 現状を批判的に見ることができる人にとって重要なことは、人間が絶え間なくより人間的であることを目指すための現状改革を行なっていくことである。批判的な思考を要するような真の対話だけが、さらなる批判的思考を生み出すことができる。p181-182

 本当に人間的な教育者や本来の意味での革命家にとって、活動の対象は共に変革すべき「現状」そのものなのであり、人々自体が変革すべき対象なのではない。現状はそのままに、そこにいる人々をこそ活動対象と見なして、彼らを現実に適応させるように教化しようとするのが、いわば支配者である。p185

  ヒューマニストの仕事は、抑圧者のスローガンによって、いわば内なる抑圧者を自らのうちに抱えるようになってしまった人たちが、本当の意味での人間であることができるように、自分自身を意識化することを助けることこそが、仕事である。人々との対話、すなわち、そこにある情況を客観的なものとして知るだけでなく、その客観的情況をどのように認識するか、自分のいる世界のうちで、自分をどのように又、どの程度認識できているかということを、問題にするのである。pp187-188

 


→批判的思考を通して、現実を眺め、変革の主体として、立ち上がることを促すことが、教育者や革命家として、必要なこと。変革すべきは、「現状」であって、現状が変革されれば、人は変わる。自らの位置を客観的に意識化し、批判的思考によって、現実を変革し、その中で、自分も変わっていくという実践のあり方を、示している。

→→「今」を固定的に見る思考は、抑圧されるとしばしば生じる。「今」が苦しいと、苦しみが永続化するのではないかと、恐れ慄く。その今を支配しているものがなんなのか、客観的に見極める力が宿れば、苦しみから解放される。

→→→抑圧された学生の中にある抑圧者の刻印。抑圧者のルールが、抑圧された学生の体に染み込んでいるケース。「ノートは綺麗に取らなければなりません。先生からそう教わりました。」綺麗に取るという、恐るべきルール。何のために、教師のくだらない板書をそのまま学生は書き写さねばならないのか?教師の管理下に置かれて優等生ぶっているだけで、全く何の内容もないノートを検閲までされて、ハンコまで押されている某高校の徹底管理体制。これを知った上で、私に何ができるか? ノートを綺麗に取らねばならないということは、一つの偏った思考方法であるということを、丁寧に説明しつつ、これは洗脳に過ぎないことを知らせる。脱洗脳された大脳から、次にどのように自由なノートを取ることが可能か、が議論されるべきテーマとなる。

 


→→→→被抑圧者の中にある抑圧者の痕跡:

☆赤信号で歩道を渡らない。

 国家によって管理された「信号機」の指示に従順に従うこと。

☆授業中歩き回らない。しゃべらない。立ち上がらない。

 教師によって管理され切った姿。教師に良いように管理・支配されているだけ。教師王国の単なるルール。学生本意で展開されていない証拠。

☆受付順になされる診察

 医師権力によって順序が決められる。本来的には、必要に応じた診察順序が客観的に行われるべき。医師の言うことにただただ従うだけの患者。

☆授業中にトイレに行かない、行けない。

 親からのしつけとしての排泄教育とそれを引き継いでいる教師権力による時間管理、空間管理。排泄行為さえ自由にできない存在に圧倒的な多数が堕ちている。教師管理の授業を打ち破るためには、大挙して合法的にトイレに駆け込むことだ!このことを通して、管理者を打ち破り、主客の関係性を決定的なまでに変革できる、かもしれない。

☆ワクチンを我先に打つ民衆の姿

 国家による無料ワクチンの提供という異常な事態のさ中において。国家が危機に瀕しているとき、ワクチンという手法で、民衆を国家の管理下におこうとし、「ワクチン大臣」を配置する。さも、ワクチンを打つことが、「正しい行動である」化の現象が蔓延しつつある。<タダほど怖いものはない>と私は、常々思っている部分があるわけだが、インフルエンザ無料ワクチンから有料化された歴史を考えたとき、果たして、「ワクチン」の良し悪しは、私の中では、依然として判断はつかない。

 国家の思惑ははっきりしているわけで、その方向でものを考えないようにはしている。一方で、ワクチンの良し悪しの判断の材料となるデータは、集めようとしている。ただし、ワクチン賛成派からのデータは、副作用情報が欠落しがちであることを頭に置いておかねばならない。 

→→→→→現状を批判的に見る。今置かれている現実を肯定する立場ではなく、現実を変革の対象として見る。現実を仕切っているルール、条件は必ず複数存在する。そのいくつかの条件を見直すことを通して、現実は必ず変革されていく。

 時間軸、空間軸を支配している条件を見定めること。

☆☆思考実験:「30分に一度手を洗わなければならない」と考えている人を前にして。   どのような対話的な対応が考えられるか?     2021-9-28  

@@@@8

 人びとが置かれている現実とそして、教育者と人びとが共有する現実の認識のうちに、教育プログラムの内容を探求すべきなのである。この探求のときこそ、解放の実践としての対話の教育の始まりである。具体的な探究の作業とは、人びとのいわばテーマの宇宙というものの探索のことであり、それはすなわち生成テーマの探究のことである。pp190-191 

→対話の話題設定のこと。授業場面であれば、その日の授業のテーマ性について。何について、どのような方向でと言った方向性。

 しかし、そこに既成の流れを作り過ぎると、ベルトコンベアー的な色合いが出てくる。

 教育者と被教育者の間で、共有しているテーマで、それを深める形の対話設定であり、問題意識をぶつけ合いやすい形のものが、選び出されるべきなのだろう。

 テーマの切り出し方で、その日のその授業の流れが、決定的に支配されかねない。

 


→→既成のカリキュラムに従っている場合であっても、テーマ性を深めていく中で、その日に話題にする内容にまとまりを持たせたり、関連を持たせたり、と、いかようにも活用できる。

 


→→→他者との対話において、話題の設定は、極めて重要なもの。事前に準備するだけで無く、対話している中で、懸命にその先の展開を緊張感を持って探り当てる。必ずや、当該同士の間に、対話すべきリアルな話題があるはず。その話題に、両者がたどりつけるかどうか。そのことに、対話のあり方がかかっている。

 


☆思考実験1

今台風が近づいている。

そんなとき、雪の話をする、と言うカリキュラムのなかで、どのような対話を模索していくのが、妥当なのだろうか?

 


☆思考実験2

ナイフで怪我をした。包帯を薬局で購入しようとしたが、

たまたま売り切れている。

 医療従事者として、当該とどのような対話をすれば良いのだろうか?

 

 

 

被抑圧者の教育学 2−2

@@@@3 

 ところが、実際のところ、マージナライズされ、見放されている人たち、つまり抑圧されている人たちそのものは、実際にはこの社会の「蚊帳の外」にいられるはずもない。実際には、いつだって、「内側」にいたのである。だからこそ、本当の解決とは、その社会構造に「統合」されたり、「一体化」されたりしていくことなのではなく、抑圧を生み出すその構造そのものを変革し、「自らのための存在」というものを作り出していくしかないのである。

 ものごとの本質を問う姿勢をもつということは、抑圧する側にとって、危険なことである。「銀行型教育」によっては、より本質的に考え、全き存在でありたいとする人間の存在論的な使命感からは、まったく反対の方向である機械のような存在に人間をいざなう。

 (pp137-139)

→周辺化された存在として、存在するとき、「蚊帳の外」に置かれているように感じはするが、実は、依然として、内側にいる。内側にいて、はみ出そうとする勢いに押されながら、それでも、依然として、社会の一員として、組織化されようとする勢いが発生する。その矛盾に耐えるのではなく、その矛盾を乗り越えて、「自分のための場」を創り出せという話。

 銀行型教育によっては、全体的、本質的なものはつかめない。知識の断片化されたものを機械的に覚えさせらる。そのことを通して、本質に接近しようとする気持ちを逸させる。

→→私は、集団の中で、集団の価値に合わせられず、その中であえぎ、苦しんできた。マージナル化していく自分を正当化するわけにもいかず、しかし、マージナル化していかざるを得ない自分を抑えきれず、「集団内」にとどまることを強制されるという経験を何度もしてきた。そして、ある種の学問に触れることで、この感覚を言語化することに成功した。そのことで、私は私の中の未解明な本質的な、なにごとかを捕まえることができたのだと思う。

 私の感覚は間違っていなかった。私がマージナル化されたこととその中で、苦しんできたことは、私を鍛えることとなったが、そこで潰されずに生き抜いたが故に、今があるとは思える。しかし、その中で、潰されようとしている存在が今現実においても存在していることに想いを馳せたとき、私が、なんとか生き残っているわけだが、我慢によって、今を乗り越えろ、とは、とても言えない。潰される前に、逃げ出せ。あるいは、ともに闘おう、としか、言葉をかけることができない。

 ゆえに、「自分のための場」をいかに創り出して行けるのか、それを考えるということを、どのように進めていけるのか、その模索を続けていくことが、私の生きながらえたことの、歴史的な使命と思っている部分もある。

→→→メインストリームを歩くものと、周辺化されていく存在。その架け橋となる存在は、どのようにして可能か。非喫煙者と喫煙者の例をとってみる。現代的には、非喫煙者がメインストリーム、喫煙者は周辺化され抑圧されている。その中で、非喫煙者である私が、抑圧されている喫煙者との間で、どのような架け橋が成り立つのか?

 △喫煙者を取り締まる取締官が登場した際には、「来ました!」と声をあげて、喫煙者を逃すこと。

 △喫煙スペースの確保。非喫煙者による過剰な過敏すぎる攻撃から守る。

 △喫煙はしないが、タバコを持って、喫煙しているふりをする。

 禁煙ファッシズムと言って良い情況がはっきりと出現しているわけだが、その情況からいかに抜け出し、中心と周辺化のありようを、全体として、確立していけるのか、重要なテーマだと思う。

→→→→公園に住むホームレスと公園利用者。周辺化される公園在住ホームレス。五輪関連で、都内の公園から追い出されたホームレスも存在している。

 公園利用者の中にある、「ホームレスは怖い」という意識。これを乗り越えるために、どうすべきか。

 問題の本質は、大きな構造の中にある。なぜ、ホームレスが存在しているのか?ホームレスの存在を、なぜ私たちは、許容しているのか?なぜ、社会として、ホームレスの存在を認めているのか?それは、ホームレスは、自己責任だ、という意識が根強く存在しているからだ。このような恐ろしい社会に今、私たちは生きている。

 自分の腕一本で生きている私は、腕が折れたら、一瞬にして、ホームレス化する。そのリアリティは、骨折をしそうになったとき、強く感じた。

→→→→→マージナル化されたものが、その価値を発揮し、そのものとして、立ち上がったとき、中心部分にあるものの価値が広がり、より豊かな社会になるのだと、私は確信することが、できるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

@@@@4

人間とはそもそも探求していくものであり、存在論的な使命として、より人間的であろうとするから、遅かれ早かれ「銀行型教育」が何を目指し、何を維持しようとしているかに気づき、自らの自由と解放のための闘いに乗り出していくことになる。ヒューマニストで革命的な教育者は、この可能性をただ待っているだけではない。この教育者の目指している活動は、教育される側の目指しているところと同じであり、教育する側とされる側双方の人間化を目指すものである。それは、本質的に物事を考える、ということであり、ただ与えられたり、届けられたりするような知識の詰め込みとは違う。教育者の活動は、人間の創造的な力への深い信頼に根ざしているものでなければならない。これらのことを成し遂げるためには、教育者は教育される側のよき同志であることが必要である。(pp139-140)

→銀行型教育の問題点とその先に向かうべき「革命的教育者」の有り様についての提起。言葉は、極めてきれいな言葉で観念的に表現されている。どこのセクトの表現かと、見間違えそうなほどに。教育に「革命」を起こすとは、どういうことか?

既存の教育実践に楔を打ち込み、根底から変革を呼び覚ますことを、「革命」と呼ぶとするならば、「解放の教育学」は革命の教育学として、機能する。

 問題は、「本質的にものを考える」という行為が、どのような行為なのか?本質と規定しているものが、果たして万人にとって「ひとつのもの 唯一」なのか、どうか。「多様性を認めた本質という概念」が存在できる環境がどのように構築できるのか?と問いを捉え返しても良い。

→→本質的に考える、ということを言い出すとき、言った当該は、すでに「本質を知っている」かの如く考えている。あるいは、本質があるかの如く、考えている。その姿勢が、すでに抑圧的であることを忘れている。本質的に考えよ、というその言葉が、すでに抑圧を内在させているということを、忘れている。

 ゆえに、私は、この言葉を、スローガン的に用いることを拒否する。本質というものは、そこで対話している当事者同士の間に成り立つ概念で、あらかじめ、見えているものではない、と私は考えたい。出なければ、「教育」における本質的な理解を、教える側が、先にしていることになる。であるならば、教える側と教えられる側は、同志でもなんでもない。たて関係の単なる思想の伝授が起きている宗教化された儀式を、革命的教育と呼んでいることになる。 

 革命は容易には起きない。しかし、あるとき、情況が革命的に変化していることは確かにある。教育における革命が、理論通りに起きるなどとは、私は考えないし、仮に起きたとしても、それは革命ではないだろうと、思ってさえいる。

→→→例えば、物理学における本質を大手予備校の一部では、微分方程式に表現されるものであると考えている。つまり、数学的な表現に到達しない限り本質に達することはできない、としている。それは一つの考え方。別の予備校では、微分積分ではなく、物理「公式」に本質が宿っていると考えている。これはこれで、一つの考え方。

 しかし、私は、そのいずれにも俗そうとは思わないし、上の考え方は間違っていると思っている。現象の説明の仕方は、多様にあり、それぞれの流派がそれぞれの流派に従って,その解釈を表現すれば良い。マスプロ教育とはそのようなことしかできない。が、それが本質だと規定されるとそれは間違いだ、と私は言いたい。それぞれの学習者には、それぞれの学習者にとっての本質があり、それに基づいた本質的理解といった物事が当たり前のように存在しうる。教育における本質は、最新物理学的な本質とは、一致しないし、一致させなければならないものでもない。物理学には物理学的な論理で研究は進んでいく。教育学がそれに合わせなければならないものでもない。研究と教育は異なる。私は、それぞれの学習者が、その今いる位置からその先に進むために必要としているであろうことを模索し、それを少しばかり提示し、ともに考えていく中で、「本質を探り当てる」という行為をしていくことしかできないし、それが「革命的教育」と呼ぶしかないのだろうと、考えている。教師と学生が共に歩むとは、そのような実践を指すのではないか?

 


→→→医療関係に置き換えて思考してみる。

治療する側とされる側。医師と患者の関係に対置できる。

フレイレ文からのからの置き換え↓

人間とはそもそも探求していくものであり、存在論的な使命として、より人間的であろうとするから、遅かれ早かれ「銀行型治療」が何を目指し、何を維持しようとしているかに気づき、自らの自由と解放のための闘いに乗り出していくことになる。ヒューマニストで革命的な医療実践者は、この可能性をただ待っているだけではない。この医療実践者の目指している活動は、治療される側の目指しているところと同じであり、治療する側とされる側双方の人間化を目指すものである。それは、本質的に物事を考える、ということであり、ただ与えられたり、届けられたりするような知識の詰め込みとは違う。医療実践者の活動は、人間の創造的な力への深い信頼に根ざしているものでなければならない。これらのことを成し遂げるためには、医療実践者は治療される側のよき同志であることが必要である。

@@@置き換えここまで

 


このように対置したとき、革命的医療実践者とは、どのような存在であり得るのか?について、考えることになるだろう。

 銀行型治療とは、医師の言うことにただ従うだけの治療行為。医師の言葉は、神の言葉で、有無を言わさず、従うよりない。過剰に権威付された医師像が浮かぶ。

 そして、そのような医療実践行為は、必然的に現実的に崩壊した。説明と同意を求める動きの強まり、セカンドオピニオン制の導入など、患者サイドの権利要求を受け入れる形で。医師の主張を丸呑みして従ったにも関わらず、死亡した事例があまたあった、という現実が、医師の横暴な高利貸し型の治療を崩壊させた。

 


 現存する医師の銀行型の治療について、以下取り上げる。

 @自由診療を基調とする医師は患者を選ぶ。

  治療費が確保できる保証がない限り、自由診療はできない。

 @伝承医療は、多くの西洋医学に携わる医師は毛嫌いする。何が効いているのか、なぜ効いているのか、が、西洋科学的に特定されないが故に、医師的な根拠を持って説明できないからだ。患者に寄り添う医療を謳いながら、民間伝承治療には、乗り出さない、という欺瞞。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

@@@@5

 「銀行型教育」は人間と世界の間に本来は存在していない二元論を仮定する。つまり、一人の人間はただ一人の人間としてこの世界に存在する。世界と共に存在しているわけでも、他者とともに存在しているわけでもない、と仮定されている。人間は世界の観客のようであり、世界を創り変える存在ではない。人間の一部に意識というものがあるという風に捉え、人間そのものを「意識を持った身体」とは捉えない。意識は、人間の「内部」で区分されているようなもので、機械的に分けられた状態で、受動的に世界に開かれ、機械的に区分された一つひとつを世界の実現というもので「埋めて」いくようなイメージである。バラバラに区分された意識は、この世界がすることを「預金」のごとくずっと受け取り続ける。だから自らのうちなるものは常に変えられしまう。

 銀行型教育の概念において、意識とは世界の内面となることを期待しながらも、世界に向けて受動的に開かれている一部ということになる。すでに受動的になっている人間は、さらに受動的な教育に適応するようになり、世界そのものにも適応するようになる。銀行型教育に適応すればするほど、より「教育のある人」と見られるようになる。このようにして、教育される側がすべての本質に関わることを考えにくくされている。

 人が生きる、ということにおいて、コミュニケーションが意味を持つことだ、ということが銀行型教育では理解できないのである。教育されるものの本質的な思考があってこそ教師もまた本質に近づけるし、教えるもの、教えられるもの双方が現実によって媒介され、両方からの意味を伝え合うということが成立する。思考は自らのみにとどまる思考ではなく、また他者から押し付けられるものでもない。思考はこのようにしてはじめて意味を持つものとなるのであり、お互いのコミュニケーションのうちで媒介された意識によってこそ世界を変えうるような行動を呼び起こす思考の源が生まれる。(pp141-146 一部書き換え)

 


→銀行型教育における、人間と世界の二言論への批判。人の意識を認めるが、それが受動的に認められているだけに過ぎず、受動的であることに抑圧があるわけだが、そのことを意識させないようにさせられて、抑圧を感じないものを輩出しているという構造分析。

 意識は世界の内面になることを期待されている・・・がそれが、今の世界を受動的に受け入れることを期待している、という指摘。

 


→→ある一定のプロセスを経ないと、たどり着けないとする銀行教育型のプログラム。それは完全な間違いで、プロセスなど経なくとも、思考は、ある地点に行ける。その地点から、話を始めることは、必ずできる。しかし、それができないとする「銀行型」管理体制が存在している。

  例えば、微分積分を小学生に教えることは、容易だ。微分の基礎を提起すれば、そんなことは容易にできるわけだが、高校生になってから「微分は学ぶもの」という規制の観念が邪魔して、教師の側からは教えられない、学生の側からは難しい、という双方の壁に阻まれて、教育関係が成り立たない。世界を自由に捉えようとする姿勢があれば、事態は大きく変革されるだろうと思う。

  物理を学ぶのに数学が必要だという論理でもって、物理を教えるとするならば、それは、物理を教えいているのではなく、数学を教えているに過ぎないのだと、なぜ、物理講師は気づかないのか、気づかないふりをし続けるのか。

  小学生に化学を教えることも可能だ。イオンなどという難しい言葉を使うのをやめ、物体の持つプラスの性質とマイナスの性質を持つものとして、プラス物質、マイナス物質として、提起し直し、化学式を○、や△で表せば、いくらでも化学反応式を作り出すことはできる。その教育プログラムを誰も開発していないから、教えられないことになっている。化学反応式を通して学べることがあるのならば、それを開発すれば良いだけの話。それをやろうとしない指導者が圧倒的に多いから、受動的なものの考え方しかできない教育集団となっている。

  教育する側も、ものごとの本質が見えていない。銀行型教育を受けてきたものが、世界を固定化して考えていることの証のようなものだ。

 


→→興味を持って曲線を眺めている子どもがいたとする。この曲線の傾き調べてみないか?という問いを出してみたとする。傾きって?と返ってきたならば、それについて、少し対話をし、傾きから、微分の原理に入っていく。その中で、新しい微分の見方が、指導する側にも起きる。その先は、やってみないとわからない。小学生には無理だ、と決めつけたら、そこで話は終わり。指導者の側の観念の変革が決定的に必要だ。

 興味を持って眺めているという現実が極めて重要で、「興味を持っている意識状態」が起点となって、その先に進める。上から無理に興味を押し付けると、失敗する。

 逆に考えると、「興味を持っている状態」をいかに創り出すかが、銀行型教育を解体するためには、とても重要であることがわかる。

 


→→→大学の理系の授業がなぜつまらないのか?について考察する。

 


 大学教育は、教養教育と専門教育に分かれる。教養教育は、常識のレベルを上げることに力が注がれる一方で、専門教育は、その時代の最先端知識、技術に触れる機会を提供するためにある。

 専門とは、現代社会の分業化された現実を反映して、専門領域は細分化され、断片化されている。それぞれの専門家が、それぞれのやってきたことを、テキトーにしゃべり、紹介する。専門家とアマチュア的な勢いで、上から知識を投げ下ろすスタイルが定着している。銀行型教育の典型のような存在だ。専門家と称しているものが、ただただ専門だけの話をして終わるようなものを、真面目に聴いていても、全く何も面白くない。具体的な何か、を通して、人はリアリティを見出し、面白さを感じる訳だが、その要素が全くない中で、パワポをガンガン展開されても、何も伝わってこない。

 学生はただただ受動的存在に陥ち、主体性を奪われる。テストで単位を取ることを仕事とし、学問の最先端への興味を喪失し、落単への恐怖に支配され、試験制度の中に埋没すす日常を送ることになる。これが大学生活か?という疑問とともに。

 専門教育の存在形式が決定手に問題だらけだ。徒弟制度のような縦関係を残している医歯薬系の学科は依然としてままある。専門教育が、教養教育に接続しなくても良いと考えている向きもある。今、最先端で行われていることが、リアルに伝わる場面が、想定されていない。

 現存する大学教師が、受けてきたくだらない講義をそのまま垂れ流すような講義をし続けているから、何も変わらない。変えようする勢力が育たない。

 故に、全く面白くない状態が継続する。

 

 コロナ禍において、せっかくの大学が変わるチャンスだったわけだが、その機会を逸した。大学が為すべきは、パワポで、講義概要を消化することなどではなく、もっと真に価値のある骨太の議論であったり、問題意識の発掘だったり、為すべきことはあった。根底から変革するべきことはあった。

       2021-9-26