被抑圧者の教育学 2−2

@@@@3 

 ところが、実際のところ、マージナライズされ、見放されている人たち、つまり抑圧されている人たちそのものは、実際にはこの社会の「蚊帳の外」にいられるはずもない。実際には、いつだって、「内側」にいたのである。だからこそ、本当の解決とは、その社会構造に「統合」されたり、「一体化」されたりしていくことなのではなく、抑圧を生み出すその構造そのものを変革し、「自らのための存在」というものを作り出していくしかないのである。

 ものごとの本質を問う姿勢をもつということは、抑圧する側にとって、危険なことである。「銀行型教育」によっては、より本質的に考え、全き存在でありたいとする人間の存在論的な使命感からは、まったく反対の方向である機械のような存在に人間をいざなう。

 (pp137-139)

→周辺化された存在として、存在するとき、「蚊帳の外」に置かれているように感じはするが、実は、依然として、内側にいる。内側にいて、はみ出そうとする勢いに押されながら、それでも、依然として、社会の一員として、組織化されようとする勢いが発生する。その矛盾に耐えるのではなく、その矛盾を乗り越えて、「自分のための場」を創り出せという話。

 銀行型教育によっては、全体的、本質的なものはつかめない。知識の断片化されたものを機械的に覚えさせらる。そのことを通して、本質に接近しようとする気持ちを逸させる。

→→私は、集団の中で、集団の価値に合わせられず、その中であえぎ、苦しんできた。マージナル化していく自分を正当化するわけにもいかず、しかし、マージナル化していかざるを得ない自分を抑えきれず、「集団内」にとどまることを強制されるという経験を何度もしてきた。そして、ある種の学問に触れることで、この感覚を言語化することに成功した。そのことで、私は私の中の未解明な本質的な、なにごとかを捕まえることができたのだと思う。

 私の感覚は間違っていなかった。私がマージナル化されたこととその中で、苦しんできたことは、私を鍛えることとなったが、そこで潰されずに生き抜いたが故に、今があるとは思える。しかし、その中で、潰されようとしている存在が今現実においても存在していることに想いを馳せたとき、私が、なんとか生き残っているわけだが、我慢によって、今を乗り越えろ、とは、とても言えない。潰される前に、逃げ出せ。あるいは、ともに闘おう、としか、言葉をかけることができない。

 ゆえに、「自分のための場」をいかに創り出して行けるのか、それを考えるということを、どのように進めていけるのか、その模索を続けていくことが、私の生きながらえたことの、歴史的な使命と思っている部分もある。

→→→メインストリームを歩くものと、周辺化されていく存在。その架け橋となる存在は、どのようにして可能か。非喫煙者と喫煙者の例をとってみる。現代的には、非喫煙者がメインストリーム、喫煙者は周辺化され抑圧されている。その中で、非喫煙者である私が、抑圧されている喫煙者との間で、どのような架け橋が成り立つのか?

 △喫煙者を取り締まる取締官が登場した際には、「来ました!」と声をあげて、喫煙者を逃すこと。

 △喫煙スペースの確保。非喫煙者による過剰な過敏すぎる攻撃から守る。

 △喫煙はしないが、タバコを持って、喫煙しているふりをする。

 禁煙ファッシズムと言って良い情況がはっきりと出現しているわけだが、その情況からいかに抜け出し、中心と周辺化のありようを、全体として、確立していけるのか、重要なテーマだと思う。

→→→→公園に住むホームレスと公園利用者。周辺化される公園在住ホームレス。五輪関連で、都内の公園から追い出されたホームレスも存在している。

 公園利用者の中にある、「ホームレスは怖い」という意識。これを乗り越えるために、どうすべきか。

 問題の本質は、大きな構造の中にある。なぜ、ホームレスが存在しているのか?ホームレスの存在を、なぜ私たちは、許容しているのか?なぜ、社会として、ホームレスの存在を認めているのか?それは、ホームレスは、自己責任だ、という意識が根強く存在しているからだ。このような恐ろしい社会に今、私たちは生きている。

 自分の腕一本で生きている私は、腕が折れたら、一瞬にして、ホームレス化する。そのリアリティは、骨折をしそうになったとき、強く感じた。

→→→→→マージナル化されたものが、その価値を発揮し、そのものとして、立ち上がったとき、中心部分にあるものの価値が広がり、より豊かな社会になるのだと、私は確信することが、できるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

@@@@4

人間とはそもそも探求していくものであり、存在論的な使命として、より人間的であろうとするから、遅かれ早かれ「銀行型教育」が何を目指し、何を維持しようとしているかに気づき、自らの自由と解放のための闘いに乗り出していくことになる。ヒューマニストで革命的な教育者は、この可能性をただ待っているだけではない。この教育者の目指している活動は、教育される側の目指しているところと同じであり、教育する側とされる側双方の人間化を目指すものである。それは、本質的に物事を考える、ということであり、ただ与えられたり、届けられたりするような知識の詰め込みとは違う。教育者の活動は、人間の創造的な力への深い信頼に根ざしているものでなければならない。これらのことを成し遂げるためには、教育者は教育される側のよき同志であることが必要である。(pp139-140)

→銀行型教育の問題点とその先に向かうべき「革命的教育者」の有り様についての提起。言葉は、極めてきれいな言葉で観念的に表現されている。どこのセクトの表現かと、見間違えそうなほどに。教育に「革命」を起こすとは、どういうことか?

既存の教育実践に楔を打ち込み、根底から変革を呼び覚ますことを、「革命」と呼ぶとするならば、「解放の教育学」は革命の教育学として、機能する。

 問題は、「本質的にものを考える」という行為が、どのような行為なのか?本質と規定しているものが、果たして万人にとって「ひとつのもの 唯一」なのか、どうか。「多様性を認めた本質という概念」が存在できる環境がどのように構築できるのか?と問いを捉え返しても良い。

→→本質的に考える、ということを言い出すとき、言った当該は、すでに「本質を知っている」かの如く考えている。あるいは、本質があるかの如く、考えている。その姿勢が、すでに抑圧的であることを忘れている。本質的に考えよ、というその言葉が、すでに抑圧を内在させているということを、忘れている。

 ゆえに、私は、この言葉を、スローガン的に用いることを拒否する。本質というものは、そこで対話している当事者同士の間に成り立つ概念で、あらかじめ、見えているものではない、と私は考えたい。出なければ、「教育」における本質的な理解を、教える側が、先にしていることになる。であるならば、教える側と教えられる側は、同志でもなんでもない。たて関係の単なる思想の伝授が起きている宗教化された儀式を、革命的教育と呼んでいることになる。 

 革命は容易には起きない。しかし、あるとき、情況が革命的に変化していることは確かにある。教育における革命が、理論通りに起きるなどとは、私は考えないし、仮に起きたとしても、それは革命ではないだろうと、思ってさえいる。

→→→例えば、物理学における本質を大手予備校の一部では、微分方程式に表現されるものであると考えている。つまり、数学的な表現に到達しない限り本質に達することはできない、としている。それは一つの考え方。別の予備校では、微分積分ではなく、物理「公式」に本質が宿っていると考えている。これはこれで、一つの考え方。

 しかし、私は、そのいずれにも俗そうとは思わないし、上の考え方は間違っていると思っている。現象の説明の仕方は、多様にあり、それぞれの流派がそれぞれの流派に従って,その解釈を表現すれば良い。マスプロ教育とはそのようなことしかできない。が、それが本質だと規定されるとそれは間違いだ、と私は言いたい。それぞれの学習者には、それぞれの学習者にとっての本質があり、それに基づいた本質的理解といった物事が当たり前のように存在しうる。教育における本質は、最新物理学的な本質とは、一致しないし、一致させなければならないものでもない。物理学には物理学的な論理で研究は進んでいく。教育学がそれに合わせなければならないものでもない。研究と教育は異なる。私は、それぞれの学習者が、その今いる位置からその先に進むために必要としているであろうことを模索し、それを少しばかり提示し、ともに考えていく中で、「本質を探り当てる」という行為をしていくことしかできないし、それが「革命的教育」と呼ぶしかないのだろうと、考えている。教師と学生が共に歩むとは、そのような実践を指すのではないか?

 


→→→医療関係に置き換えて思考してみる。

治療する側とされる側。医師と患者の関係に対置できる。

フレイレ文からのからの置き換え↓

人間とはそもそも探求していくものであり、存在論的な使命として、より人間的であろうとするから、遅かれ早かれ「銀行型治療」が何を目指し、何を維持しようとしているかに気づき、自らの自由と解放のための闘いに乗り出していくことになる。ヒューマニストで革命的な医療実践者は、この可能性をただ待っているだけではない。この医療実践者の目指している活動は、治療される側の目指しているところと同じであり、治療する側とされる側双方の人間化を目指すものである。それは、本質的に物事を考える、ということであり、ただ与えられたり、届けられたりするような知識の詰め込みとは違う。医療実践者の活動は、人間の創造的な力への深い信頼に根ざしているものでなければならない。これらのことを成し遂げるためには、医療実践者は治療される側のよき同志であることが必要である。

@@@置き換えここまで

 


このように対置したとき、革命的医療実践者とは、どのような存在であり得るのか?について、考えることになるだろう。

 銀行型治療とは、医師の言うことにただ従うだけの治療行為。医師の言葉は、神の言葉で、有無を言わさず、従うよりない。過剰に権威付された医師像が浮かぶ。

 そして、そのような医療実践行為は、必然的に現実的に崩壊した。説明と同意を求める動きの強まり、セカンドオピニオン制の導入など、患者サイドの権利要求を受け入れる形で。医師の主張を丸呑みして従ったにも関わらず、死亡した事例があまたあった、という現実が、医師の横暴な高利貸し型の治療を崩壊させた。

 


 現存する医師の銀行型の治療について、以下取り上げる。

 @自由診療を基調とする医師は患者を選ぶ。

  治療費が確保できる保証がない限り、自由診療はできない。

 @伝承医療は、多くの西洋医学に携わる医師は毛嫌いする。何が効いているのか、なぜ効いているのか、が、西洋科学的に特定されないが故に、医師的な根拠を持って説明できないからだ。患者に寄り添う医療を謳いながら、民間伝承治療には、乗り出さない、という欺瞞。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

@@@@5

 「銀行型教育」は人間と世界の間に本来は存在していない二元論を仮定する。つまり、一人の人間はただ一人の人間としてこの世界に存在する。世界と共に存在しているわけでも、他者とともに存在しているわけでもない、と仮定されている。人間は世界の観客のようであり、世界を創り変える存在ではない。人間の一部に意識というものがあるという風に捉え、人間そのものを「意識を持った身体」とは捉えない。意識は、人間の「内部」で区分されているようなもので、機械的に分けられた状態で、受動的に世界に開かれ、機械的に区分された一つひとつを世界の実現というもので「埋めて」いくようなイメージである。バラバラに区分された意識は、この世界がすることを「預金」のごとくずっと受け取り続ける。だから自らのうちなるものは常に変えられしまう。

 銀行型教育の概念において、意識とは世界の内面となることを期待しながらも、世界に向けて受動的に開かれている一部ということになる。すでに受動的になっている人間は、さらに受動的な教育に適応するようになり、世界そのものにも適応するようになる。銀行型教育に適応すればするほど、より「教育のある人」と見られるようになる。このようにして、教育される側がすべての本質に関わることを考えにくくされている。

 人が生きる、ということにおいて、コミュニケーションが意味を持つことだ、ということが銀行型教育では理解できないのである。教育されるものの本質的な思考があってこそ教師もまた本質に近づけるし、教えるもの、教えられるもの双方が現実によって媒介され、両方からの意味を伝え合うということが成立する。思考は自らのみにとどまる思考ではなく、また他者から押し付けられるものでもない。思考はこのようにしてはじめて意味を持つものとなるのであり、お互いのコミュニケーションのうちで媒介された意識によってこそ世界を変えうるような行動を呼び起こす思考の源が生まれる。(pp141-146 一部書き換え)

 


→銀行型教育における、人間と世界の二言論への批判。人の意識を認めるが、それが受動的に認められているだけに過ぎず、受動的であることに抑圧があるわけだが、そのことを意識させないようにさせられて、抑圧を感じないものを輩出しているという構造分析。

 意識は世界の内面になることを期待されている・・・がそれが、今の世界を受動的に受け入れることを期待している、という指摘。

 


→→ある一定のプロセスを経ないと、たどり着けないとする銀行教育型のプログラム。それは完全な間違いで、プロセスなど経なくとも、思考は、ある地点に行ける。その地点から、話を始めることは、必ずできる。しかし、それができないとする「銀行型」管理体制が存在している。

  例えば、微分積分を小学生に教えることは、容易だ。微分の基礎を提起すれば、そんなことは容易にできるわけだが、高校生になってから「微分は学ぶもの」という規制の観念が邪魔して、教師の側からは教えられない、学生の側からは難しい、という双方の壁に阻まれて、教育関係が成り立たない。世界を自由に捉えようとする姿勢があれば、事態は大きく変革されるだろうと思う。

  物理を学ぶのに数学が必要だという論理でもって、物理を教えるとするならば、それは、物理を教えいているのではなく、数学を教えているに過ぎないのだと、なぜ、物理講師は気づかないのか、気づかないふりをし続けるのか。

  小学生に化学を教えることも可能だ。イオンなどという難しい言葉を使うのをやめ、物体の持つプラスの性質とマイナスの性質を持つものとして、プラス物質、マイナス物質として、提起し直し、化学式を○、や△で表せば、いくらでも化学反応式を作り出すことはできる。その教育プログラムを誰も開発していないから、教えられないことになっている。化学反応式を通して学べることがあるのならば、それを開発すれば良いだけの話。それをやろうとしない指導者が圧倒的に多いから、受動的なものの考え方しかできない教育集団となっている。

  教育する側も、ものごとの本質が見えていない。銀行型教育を受けてきたものが、世界を固定化して考えていることの証のようなものだ。

 


→→興味を持って曲線を眺めている子どもがいたとする。この曲線の傾き調べてみないか?という問いを出してみたとする。傾きって?と返ってきたならば、それについて、少し対話をし、傾きから、微分の原理に入っていく。その中で、新しい微分の見方が、指導する側にも起きる。その先は、やってみないとわからない。小学生には無理だ、と決めつけたら、そこで話は終わり。指導者の側の観念の変革が決定的に必要だ。

 興味を持って眺めているという現実が極めて重要で、「興味を持っている意識状態」が起点となって、その先に進める。上から無理に興味を押し付けると、失敗する。

 逆に考えると、「興味を持っている状態」をいかに創り出すかが、銀行型教育を解体するためには、とても重要であることがわかる。

 


→→→大学の理系の授業がなぜつまらないのか?について考察する。

 


 大学教育は、教養教育と専門教育に分かれる。教養教育は、常識のレベルを上げることに力が注がれる一方で、専門教育は、その時代の最先端知識、技術に触れる機会を提供するためにある。

 専門とは、現代社会の分業化された現実を反映して、専門領域は細分化され、断片化されている。それぞれの専門家が、それぞれのやってきたことを、テキトーにしゃべり、紹介する。専門家とアマチュア的な勢いで、上から知識を投げ下ろすスタイルが定着している。銀行型教育の典型のような存在だ。専門家と称しているものが、ただただ専門だけの話をして終わるようなものを、真面目に聴いていても、全く何も面白くない。具体的な何か、を通して、人はリアリティを見出し、面白さを感じる訳だが、その要素が全くない中で、パワポをガンガン展開されても、何も伝わってこない。

 学生はただただ受動的存在に陥ち、主体性を奪われる。テストで単位を取ることを仕事とし、学問の最先端への興味を喪失し、落単への恐怖に支配され、試験制度の中に埋没すす日常を送ることになる。これが大学生活か?という疑問とともに。

 専門教育の存在形式が決定手に問題だらけだ。徒弟制度のような縦関係を残している医歯薬系の学科は依然としてままある。専門教育が、教養教育に接続しなくても良いと考えている向きもある。今、最先端で行われていることが、リアルに伝わる場面が、想定されていない。

 現存する大学教師が、受けてきたくだらない講義をそのまま垂れ流すような講義をし続けているから、何も変わらない。変えようする勢力が育たない。

 故に、全く面白くない状態が継続する。

 

 コロナ禍において、せっかくの大学が変わるチャンスだったわけだが、その機会を逸した。大学が為すべきは、パワポで、講義概要を消化することなどではなく、もっと真に価値のある骨太の議論であったり、問題意識の発掘だったり、為すべきことはあった。根底から変革するべきことはあった。

       2021-9-26